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映画 えいが
わずかずつ運動位置をずらした静止写真(または絵)を帯状の透明フィルムに撮影・現像・編集・プリントし,これへ間欠的に光を透過させてスクリーン上へ映写,みるものに視覚的な“動きの感覚”を伝える情報媒体。現在はこれに音をつけ「トーキー」という名の視聴覚媒体とする。映画は19世紀末の誕生以来,この機械的特性を現実の模写的再現と複製・伝播に利用,各国・各企業がこれに大きく成功したため,事実の記録からドラマチックなフィクションにいたる広範な映像作品が産出され,20世紀のスペクタクルおよびパフォーマンス媒体として世界規模の芸術と産業を形成してきた。この媒体の1世紀近い娯楽的・教育的・政治的・社会心理的・経済的影響力ははかり知れず,また国際的交流によって達成した人間同士の生き方の相互理解は想像を超えるものがある。
【その誕生】人造の機械装置によって現実の動きを視覚的に定着・再現しようとする試みは,何世紀にもわたってアラビア文化・ヨーロッパ文化を中心に,光学的・化学的研究が断片的に積み重ねられてきた。19世紀にいたって写真が開発され,以降,セルロイドフィルムや乳剤,帯状フィルムの「送り」の機構,目の錯覚の心理学などの研究が前進した結果,19世紀末葉,これらの総合体としての映画は欧米各国でほぼ同時,個別に発明が宣言された。最も史的に著名なのはアメリカ人トマス=エディソンによる,観客が一人でのぞきみる“キネトスコープ”と,それを改良して複数観客がスクリーン上の映像を共有できる方式に成功したフランス人リュミエール兄弟の“シネマグラフ”である。
【サイレント映画時代】リュミエール兄弟はこの媒体の未来に関して,とくに楽観的予測も展望ももっていなかった。しかしその映写をみた手品劇場の経営者ショルジュ=メリエスは偶然からヒントを得てカメラのトリック的操作を把握,現実実写に終始していた初期映画に超現実的な飛躍と幻想を導入し,とくに『月世界旅行』(1902年)によって,映画でしか表現し得ない“動く夢”の映像宇宙をひらいた。しかし,このような評判作で触発された映画に対するフランス知識人の敬意はかえって映像で古典的演劇芸術を温存する方向へ進み,「フィルム=ダール」と称される舞台中継式作品などが異常に重視されるに及んだ。
映画を誕生させ世界に普及させた原動力は,19世紀末における産業主義的機械技術開発への全的信頼,興隆する資本主義の潮流と大衆消費社会の出現が合致したためである。なかでもアメリカはそのエネルギーの合体が典型的な進行を示し,映画はたちまち小市民階級の娯楽的寵児として爆発的な拡大をとげた。とくにこの国の諸産業が地球の隅々から呼び寄せた移民,つまり英語を話せない新アメリカ市民にとって視覚に訴える娯楽としての映画は,ほとんど唯一夜を慰める簡便なエンターテインメント,同時にアメリカのコミュニティ社会における生活ルールを教える至便の教科書ともなった。この空気からエドウィン=S=ポーターの『大列車強盗』といったリアルなアクション映画も生まれ,今なおアメリカ映画が世界諸地域の民衆に普遍的理解を可能にさせているメンタリティが構築されていった。当初リュミエールに機械のメリットをさらわれたエディソンはたちまちその改良点を取り戻し,アメリカにおける全映画の製作配給権すら独占したが,これはこの新媒体の経済的効用に気づいた新興商人たちを憤激の反発行動へ追いあげる結果となった。彼らはエディソンの独占を避けて西部へ殺到,1910年代前半にはカリフォルニア州ロサンゼルス近郊に絶好の地形と天候の空間を発見し,ハリウッドという名はここに,以降映画産業の一大メッカとなる本拠地を建設した。ダグラス=フェアバンクス・ウィリアム=S・ハート・メリー=ピックフォードなど人気男女優は“スター”と呼ばれて全地球的なアイドルとなり,キーストン社におけるマック=セネットの破壊的笑劇(スラプスティック)やそのエロティシズム,パール=ホワイトらの主演する連続活劇の通俗性は映画だけが具現し得る形で,20世紀大衆社会の活力をシンボライズした。その頂点に立つのが動く映像の芸術的本質を実作に体現したディビッド=ワーク=グリフィス(『国民の創生』・『イントレランス』)であり,数多い短編喜劇の上に人間行動の諸真実を形象化したパントマイム芸人チャールズ=チャップリンである。
グリフィスが達成した強烈な叙事詩的リアリズムは,のちにソヴィエトで若い映画人の徹底分析を受け,映画の基礎美学の一つであるモンタージュ理論が導きだされる一原点となった。このグリフィスの映像性はそれに先立つイタリアの古代史劇映画から多く触発されたものと考えられる。1910年代前半,新興統一国家イタリアには第一次欧州大戦をひかえナショナリズムの勃興がみられた。その気運のなか『カビリア』・『クォ=ヴァディス』・『ポンペイ最後の日』など壮大な長尺古代ロマンを打ち出し,一時世界を席捲した。イタリアに残る古代以来の史跡が格好の背景を提供し,オペラの伝統に培われたスペクタクル趣味や激情的なヴェリモス(真実主義)演技がようやく長時間作品にも耐えられるようになった映画技術を助けていた。また大戦中から戦後にかけ,ピナ=メニケッリ・マリア=ヤコビニといった大型女優を中心に,リアルな現代劇でも気を吐きつづけたことが,のちのイタリアン=リアリズムを予兆させる。
北欧をみると,第一次世界大戦以前,イタリアと並んで欧米を制していたのは演劇女優アスタ=ニールセンを擁したデンマークであるが,この国は大戦中ドイツに覇権を奪われた。代わって大戦後の地表に輝きでたのが戦争にも中立を貫いたスウェーデンの映画芸術であった。神秘な題材,微妙な陰影をきめ細かく尊重した黒白画調,リアルな人間観照はビクトル=シェヌトレム(『生恋死恋』・『霊魂の不滅』)・マウリツ=スティルレル(『吹雪の夜』)らの民族的造形美を世界の存在に昇華させた。ただ,のちハリウッドが金力でこの芸術や女優グレタ=ガルボを買いよせることになり,スウェーデン映画は第二次世界大戦後のイングマル=ベルイマン時代まで沈黙を余儀なくされる。
第一次世界大戦中デンマークを倒して中央ヨーロッパ映画市場を独占したドイツは,敗戦にもかかわらず国家的なカルテル会社UFAを中心に各国の人材や優秀な機材を集中,1920年代には事業的・芸術的黄金期を謳歌するにいたった。現実の裏に真実をみる表現主義によって『カリガリ博士』(ロベルト=ウィーネ)などを初め,のちハリウッド名匠となるエルンスト=ルビッチは『パッション』などに濃厚なスペクタル趣味を展開,フリッツ=ラングは『ニーベルンゲン』連作の神秘的ロマンチシズムやSF『メトロポリス』に強烈な事大主義的人工世界を構築してみせた。なおドイツは演劇伝統の所産たる室内劇にE・W・ムルナウの『最後の人』などを生み,G・W・パプストの『喜びなき街』を一頂点に,F・A・デュポンの『ヴァリエテ』ヨーエ=マイの『帰郷』などのリアリズムにも底力を発揮,ついにはサイレント芸術を無字幕の極点で純粋化しようとする方向へも突き進んだ。
第一次世界大戦後,ルイ=デリュックら若い映像派の俊才が頭角を現すにいたって,フランス映画はよみがえった。アベル=ガンスは『鉄路の白ばら』で強烈な激情的モンタージュを展開,『ナポレオン』では三面映写幕まで用いて自然主義的視覚を巨大化し,マルセル=レルビエは『エル・ドラドオ』で印象派に通じる視覚美(フォトジェニー)を造形した。ジャック=フェデエは『テレーズ・ラカン』らの緻密な感受性でのちの傑作を予告し,ジャン=エプスタンの『アッシャー家の末裔』には無声画面から音がきこえるかのような雰囲気がみなぎっていた。そしてこの国はルイス=ブニュエルの『アンダルシアの犬』などをピークとする前衛映画隆盛の時期,大写しでことばのドラマを成就したカール=ドライエルの『裁かるるジャンヌ』,無類の乾質な喜劇ルネ=クレールの『イタリア麦の帽子』でサイレント映画をリズムの視覚芸術に届かせた。
第一次世界大戦中,経済的実力を蓄積しきったアメリカは,戦後,疲弊したヨーロッパから主導権を奪い,世界をリードする政治・経済超大国の王座についた。映画産業世界ではハリウッドがそのシンボルとなり,ュダヤ系を主力に優秀な欧州映画人が続々と吸収された。またハリウッド自体がプロデューサー=システム・スター=システム・プロダクション=コード(映画倫理規程)を整備することで映画産業の実権,商品価値,社会影響力への道徳的よりどころを完全に規格化し,年産800本の大量生産を維持した。つまりアメリカ映画は“星条旗とともに”世界へ進出して自動車・鉄鋼・石油と並ぶトップ産業に位置できたわけである。同時に国内からは外国映画が駆逐されて一種の鎖国状態が生まれ,映画芸術家の個性はエリッヒ=フォン=シュトロハイム(『愚かなる妻』)を筆頭に,完全主義製作をめざすほどにたたきつぶされる結果となった。
あらゆるジャンルの花が咲いたアメリカ=サイレント娯楽では,西部劇がしだいに国民的叙事詩へ昇華し(『幌馬車』・『乗合馬車』),チャップリン(『巴里の女性』・『黄金狂時代』)の人間凝視力を頂点に,バスター=キートン・ハロルド=ロイドら喜劇人の絶頂の仕事がみられた。『十戒』『黙示録の四騎士』といったスペクタクル映画に他国の及ばぬ威力が示されたことも独自の価値といえる。なかで欧州系のムルナウ・ジュセフ=フォン=スタンバーグ,エルンスト=ルビッチがリアリズムを深化させ,生粋のアメリカ人からもキング=ビダー(『ビッグ=パレード』)らが誕生しアメリカ社会を直視しだした。
ロシア映画が歴史の地表に躍り出たのは,帝政映画が壊滅し,レーニンが民衆芸術としての最重要性を宣言したときである。この号令下,新生のソ連映画はそれぞれに思想武装した作家が理論の実証として作品を提出し,それぞれのままサイレント映画芸術の本質を総括する成果となった点に独自の特色と意義がある。すなわちエイゼンシュタイン(『ストライキ』『戦艦ポチョムキン』『十月』『全線』)の“衝突のモンタージュ論”、ブドフキン(『母』・『アジアの嵐』)による“連鎖のモンタージュ”は,サイレント映画の文章法体系を両極で証明しつつソ連を映画史上ユニークな栄誉の位置に置いたのである。
こうして映画は,このモンタージュ,前述のフランスのフォトジェニーやリズム,チャップリンによる“凝視”の美学によって芸術理論を整備しおえたとたん,突如,商業主義の力でトーキーという異質の媒体をつきつけられる。サイレント映画は数年の抵抗ののち,瓦解し,消滅した。
日本への米・仏からの機械とフィルムの輸入は当時の交通力・情報力からは異様と思える早さで行われ,その興行は民衆の爆発的な歓呼を浴びた。しかし明治〜大正前半は記すに足る劇作品を残していない。わずかに“目玉の松ちゃん”こと尾上松之助の幼稚な忍術映画の大人気が風俗史的な興味をひく。作品の上映にあたっても,世界で唯一「活弁」という名の説明者を画面に添えるなど,サイレント芸術の進展や深化を押しとどめる慣習が抜きがたく存在しつづけた。大正中期になると,知識層の参入がみられ,ごく一部ながら映画を独自の芸術媒体とする認識が実験的な作品の形をとりだした。帰山教正・小山内薫・谷崎潤一郎・村田実・牛原虚彦・栗原トーマス・ヘンリー小谷らの名があげられる。
しかし邦画が一般娯楽品の形でサイレント映画独自の活力と思想を,突如啓示するのは,関東大震災によって東京の撮影所が壊滅し,東の映画人が京都を中心とする西の映画人と合流・混交をおこしてからである。寿々喜多呂九平脚本による『雄呂血』などのニヒリズム,山上伊太郎脚本『浪人街』にみる反抗の気分,伊藤大輔監督による『忠次旅日記』『大岡政談』のパセティックなダイナミズムなど,民衆にチャンバラの名で親しまれた時代劇の世界は,当時,各自のプロダクションを主宰したスター俳優の若い活躍とあいまって,世界に類のないサイレント映画のネガティヴな一魅力を具現していた。迫りくる不況の暗い世相は,現代映画の資本にまで“傾向映画”と称する左翼的気分の製作をすすめさせ,『何が彼女をそうさせたか』・『村の花嫁』(五所平之助)といった暗い抒情編,『足に触った女』(阿部豊)のエロティックなモダニズムのなかからは,衣笠貞之助による『狂った一頁』などの新感覚的実験映画も生みだされた。
【トーキーと戦争】トーキーとは厳密には全画面に写実的なセリフ,ノイズを含めた現実音・音楽・効果音などを付し,視聴覚情報としてリアリティの密度を充足させた映画をいう。サイレント画面をただ音楽などで伴奏させただけの映像は,サウンド版と称する。
1926年アメリカ市場にでた『ドン・ファン』や翌年の『ジャズ・シンガー』はこのサウンド版映画であった。それでも映画に強烈な現実再現効果を求める観客は多大の驚きと喝采で迎え,製作会社は社運の危機を挽回するなどあって,1929年には100%トーキーが登場した。映画をサイレントからトーキーヘ全面転換させるには製作所の撮影・録音機構からロケーションの方法,映画館の根本的改造まで,産業の基本をゆるがす出資が必要である。また無声であればこそ世界性ももてた俳優や映画国を“言語障害”で圏外へ蹴落とすドラスチックな革命でもあったが,大衆の要望と商業主義の意欲はサイレント芸術の成熟をひとたまりもなく押しつぶし,10年足らずで世界の映画は完全にトーキーへの変換を完了した。それは映画産業への売り込みを焦る米国大電機企業と無声芸術の特権を死守しようとする小資本映画人の激烈な闘争と混乱の季節でもあったが,映画は2度とサイレントへは戻らず,諸経費の飛躍的な増大が要求される大資本媒体へ転身していった。幸運は映画が独自の視覚美学を鍛えていたおかげで,声と音楽の登場でも舞台劇模写などへ逆行せずにすんだことである。最もトーキー初期のハリウッドは過剰なセリフや音楽の洪水に悩まされて映像の停滞にも陥ったが,ルイス=マイルストンが戦争を告発した『西部戦線異常なし』やスタンバーグの『モロッコ』が現れた1930年には,発声映画にも抑制された洗練と緊張が働き,音楽の強調からはレビュー映画やミュージカルという新分野が,現実音の重視からは数々のリアルなギャング映画=監獄活劇がダイナミックに生まれ,ハリウッドは活性的な娯楽秩序を取り戻した。
1920年代末からアメリカを襲った恐慌と不景気は,ハリウッドをも圏外におかなかった。財閥のしめあげは強まり,個性的な製作や発言は圧殺された。しかしそのなかで,サイレントやトーキー初期の第一線監督に代わって気鋭の映画人が個性を発揮しだした。フランク=キャプラは『或る夜の出来事』・『我が家の楽園』で現実のなかに幻想的な夢をみつつ理想主義を貫こうとし,『肉弾鬼中隊』・『男の敵』のジョン=フォードも男のリアリズムを貫徹した。なかでもフランス生まれのウィリアム=ワイラーは『孔雀夫人』・『嵐が丘』とハリウッド最高の人気凝視者であり,レオ=マッケイリ・ジョン=クロムウェル・ジョージ=キューカー,『歴史は夜作られる』のフランク=ボザーギ,『裏街』のジョン=M=スタール,『オーケストラの少女』のヘンリー=コスターなど,生活的・女性的な情感の作家にも人材を欠かなかった。いわゆる男性映画に関してはハワード=ホークスを筆頭にウィリアム=ウエルマン,ラウォル=ウオルシュとさらに印象は強烈である。そのダイナミックな作品群は『キング・コング』『大地』など大仕掛けのスペクタル娯楽と並んで,ハリウッドそのものをイメージさせていた。
こうした空気のなかハリウッドでは1935年ごろから映画の色彩化が現実の日程に入る。そして中国や欧州に砲声が響きだした1930年代末,脅かされるデモクラシーへの危機感はハリウッドへ格別の緊張をもたらし,1939〜40年に他時期と異質の一黄金期をつくらせた。『独裁者』(チャップリン),『風と共に去りぬ』(ビクター=フレミング),『市民ケーン』(オーソン=ウェルズ),『駅馬車』『怒りの葡萄』(フォード),『スミス都へ行く』(キャプラ),『レベッカ』(アルフレッド=ヒッチコック),『ファンタジア』(ウォルト=ディズニー)などがその代表的収穫である。
情報媒体は当然その使用言語を送り手と受け手とで共有することが必要だから,映画もトーキー化の結果,言語人口の少ない国(スウェーデン・イタリアなど)の産業はすべて沈黙するか国内化し,国際通用力を失ってしまった。トーキーでグローバルに生き残れたのはアメリカを除けばドイツ語とフランス語映画,という時代が1930年代であった。
ドイツはトーキー到来で逆にハリウッドから祖国へ帰還した映画人も多く,また大物製作者エリッヒ=ポマーの登場などもあって,少なくとも1930年代前半までは世界トップクラスの映画国を維持した。エリック=シャルルの『会議は踊る』をはじめ,スタンバーグ『嘆きの天使』,パプスト『三文オペラ』など,なんらかの音楽に特色をもつ作品が多いのは,やはりこの国もトーキーをまず音楽的な価値でとらえようとしたからであった。また女性監督も多くレオンティネ=ザガン『制服の処女』,レニ=リーフェンシュタール『青の光』などには濃密な情感が満ちていた。
しかし1933年,ナチズムが支配するに及んで一挙に映像の質を劣化させ,居残ったリーフェンシュタールが『意志の勝利』・『民族の祭典』などの記録で芸術の独立と政治性について貴重な検討資料を提供する以外,なにもないに等しい国に落ちた。
むしろこの時期,トーキーの言語力を国際的に活用できたのはイギリスだった。サイレント時代にアメリカの風下に立つばかりでまったく忘れられた存在だったが,トーキー時代にいたって映画法による政府の自国擁護策,ハンガリー系製作者アレクサンダー=コルダの強力な活動開始,とくに海外優秀映画人の招聘策,郵政当局によるドキュメンタリー映画の振興などが活性化を促し,1930年代中葉には国際通用力をもった新進監督として『暗殺者の家』・『三十九夜』のアルフレッド=ヒッチコックを誕生させることができた。結局ヨーロッパ各国のうち,トーキー初期の10年間を最上の質と独自の個性で貫き通せたのはフランス一国であった。未来に展望のない閉塞された危機感のなかで,フランス映画人たちはペシミズムを基調にしつつも文明人として自由の尊厳を希求しつづけ,この時代の同国映画全体に,今日にいたるまでの世界映画史の一頂上期と呼んでもいい芸術の威光を与えた。多くの世紀で鍛えあげた文学・美術・演劇への素養=造詣が,声を得て一種の総合媒体となった映画にたまたま出会えたその幸運でもあった。まず,4人の代表的映画作家が語られなければならない。ルネ=クレールは,アメリカがトーキー到来に沸いて混乱をつづけるのをみきわめたのち,満を持して『巴里の屋根の下』を放ち,抑制がかえって強調する音使用でトーキーのありようのオリエンテーションを行った。この作品の線上に彼は『巴里祭』を残したが,本領はあくまで『イタリア麦の帽子』の系列,乾質な笑いの様式にあった。これに対してジャック=フェデエ(『外人部隊』『ミモザ館』『女だけの都』)は完璧な雰囲気構成のなかに運命的な人間の出会いの瞬間を造形し,正確をきわめた映像の写実性で人間内面の葛藤を洞察した。映像の包容力によってこのすべてを合わせもった形のジャン=ルノワールは,そこに存在する題材から人物・風景そのものまでそれ自体生命の生気である,といった作品を『大いなる幻影』『ゲームの規則』などで形象化した。さらに『商船テナシチー』『望郷』『旅路の果て』のジュリアン=デュビビエを加えた仕事は,映画の作品がどこまで監督個人の“作家的製作”であり得るかの証明ともなっている。それはまた単にこの4人だけでなく,トーキー初期に若くして逝った天才ジャン=ビゴからこの時期後半に台頭した『霧の波止場』のマルセル=カルネ・ピェール=シュナール・ジャン=ブノア=レビイ・アナトール=リトバク・レオニード=モギー(『格子なき牢獄』)らについてもいえることであった。
正式なトーキー時代を迎えた日本では,昭和10年代,文芸作品の映画化を中心に一つの大きな黄金時代を実らせていた。それまで社会からの疎外感を味わっていた映画人は,無声のため内面表現に不自由のある映画は文学の風下に立つ,という思い込みにも悩まされていたが,声と音は,この劣等感をも取り除く役を果たしたのである。
最も長くサイレントにとどまった小津安二郎(『麦秋』)は珠玉の乾質なトーキーを放ちつづけ,粘着的な,『西鶴一代女』の溝口健二と日本映画の美を分けあった。内田吐夢(『生ける人形』)・田坂具隆(『五人の斥候兵』)・成瀬巳喜男(『浮雲』)・伊丹万作(『国士無双』)・山中貞雄(『人情紙風船』)・稲垣浩(『無法松の一生』)・山本嘉次郎(『馬』)らにつづいて豊田四郎(『若い人』)・吉村公三郎(『暖流』)らの台頭があり,山本薩夫(『暴力の街』)・今井正(『米』)のあとに黒沢明(『羅生門』)・木下恵介(『二十四の瞳』)らの出発を迎えたこの数年間は,メロドラマ『愛染かつら』の大ヒットや京都における林長二郎(長谷川一夫)・大河内伝次郎・阪東妻三郎らの時代劇隆盛とあいまって,まさに日本映画は堂々たる国民娯楽の主座についたのである。
1930年代のトーキーに映画の民衆動員力・説得力・扇動力を認識させられた各国政府は,第二次世界大戦の遂行にあたり,この媒体をフルに情報宣伝武器として,活用すべく映画界動員をはかった。これによって高められた記録意識的な現実凝視の体験が,映画にリアリズムを徹底させることになった効果は,ほかに比較する時期をもたない。国土も侵されず戦争をリードしたアメリカは,前線の慰問や鼓舞という名目で,変わることなく娯楽作品を製作しつづけ,そこから『GIジョウ』『カサブランカ』『ミニバー夫人』のような戦意高揚の注目作も生まれ,ワイラー『偽りの花園』,ヒッチコック『疑惑の影』など秀逸な心理研究もやまずにつづけられた。
ヒッチコックの去ったイギリスからは,あとを追うようにキャロル=リード・ディビッド=リーンらが巣立ち,とくに後者の『逢びき』にみる日常の凝視は,この国の冷静さを証明するとともに,同国リアリズム映画のルネサンスを告げた。一方,ファシズムの映画国策を利用する形で,映画研究に励んだイタリアの若い世代から,新しく現実直視の美学が台頭,ロベルト=ロッセリーニ・ビットリオ=デ=シーカ・ルキノ=ビスコンティらが名を現し,戦後のイタリアン=リアリズムに道を開いた。直接間接にドイツに支配されたフランスでも活動はやまず,ルネ=クレマンは『鉄路の闘い』で対独抵抗を記録し,マルセル=カルネの『悪魔が夜来る』『天井桟敷の人々』は圧政になお屈しない人間生命力の堂々たる結晶体を形成した。
(1/2:続く)
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