50音順    検 索

●ウル

AD 

 バビロニアの古代都市。イラク南部にあるその遺跡テル=エル=ムカイヤルは,ユーフラテス川左岸下流,首都バグダードとバスラを結ぶ鉄道の沿線にある。1854年J.E.テーラーによって発見され,1918〜1919年大英博物館のH.R.ホールによる調査をへたのち,1922年からL.ウーリーをリーダーとする大英博物館ペンシルヴァニア大学の合同調査隊によって本格的な発掘が行われ,ついにその全貌が明らかになった。なお発掘は今日でも続けられている。ウルについての最も古い伝承は,太初,海の中から7人の賢者が姿を現して人間に文明をもたらしたが,その最初の一人はこの地に現れたというものである。事実,ウルの西方約6kmにあるエル=オベイドの発掘で,この地が南部バビロニアを通じて最古の文化層から成っていることが立証された(エル=オベイド期,前4000年紀初めごろ)。この彩色土器で知られる原始文明は,その後,「大洪水」がおこってすべて消滅してしまったという。その後,約500年をへて復活したウルは,神権政治下の一大都市国家を形づくり,貢納と外国交易とによって国家経済の基礎を固めた。一般に,このウル第1王朝(前2500〜前2400)から歴史時代に入ったといわれるが,それは「王名表」に〈洪水後第3の〉王朝とあり,さらにまたア=アンニ=パッダ王の碑文の発見によっても証明された。発掘されたその王墓からは多くの殉葬著と当時の生活を伝える数々の出土品が発見されている。ウル第1王朝は,5王170年にして滅び去り,ウルはその後アッカド朝・グティウム朝の支配に甘んじていたが,ウル第3王朝(前2050〜前1950)の興隆を契機にその支配を脱し,再び南部メソポタミアに覇を唱えた。ウル第3王朝はやがてシュメール・アッカドの民族・文化を融含し,また度量衡・暦なども統一して,いわゆるバビロニア世界を成立させ,のちのハンムラビ王朝(古典時代)の大統一への道を開くことになった。第3王朝第2代の王シュルギのもとに編さんされた「シュメール法典」は最古の成文法として知られるが,王の神格化はこのころから始まったという。またこの時代は神殿支配のもとに商業・交易が盛んに行われたらしく,それを裏づける当時の法律・経済文書が数多く残っている。シュメール人のウル第3王朝ごろになると,シリア・アラビアの荒地に原住した牧畜民たるセム語族がメソポタミアに浸透してきてシュメール人と混住し,シュメール文明の形成に大きな影響を及ぼすようになった。そしてついにウル第3王朝最後の王イビ=シンがエラムに捕虜となり,ここにシュメール人は自らの王朝を失い,まったくセム化されていった。シュメール人はそののちもウルの地においてセム語族の支配に抵抗をつづけたが,バビロン第1王朝のサムス=イルナ(ハムラビの子)はその治世11年にウルを滅ぼした。破壊されたウルの城壁は,その後長く放置されたままだったという。前7世紀初め,新バビロニア帝国の勃興とともにウルは再び復興し,ネブカドル大王によって神殿・聖塔などが再建されたが,ペルシア時代以降ウルは単に地方の一都市として存在したにすぎず,前4世紀ごろには廃墟と化した。

【ウルの遺跡と出土品】ウル発掘の最大の収穫は,第1王朝の王墓の発掘であった。多大な副葬品を含む王・王女の墳墓から従者・侍女など多数の殉葬者が発見されたのである。出土品の多くは,外国交易の上に立つウルの栄華をしのばせるものばかりで,有名な『スタンダード』をはじめ,金・銀・玉を用いた兜や刀剣,貝殻を象嵌(ぞうがん)したハープや将棋盤など,いずれもシュメール美術の傑作とされる。なかでも軍隊の出陣と凱旋の図が描かれている『スタンダード』は,美術品として一級品というだけでなく,当時の生活を知る貴重な史料となっている。

〔参考文献〕ウーリー『ウル』みすず書房