●梅田雲浜 うめだうんぴん
AD1815
1815〜1859(文化12〜安政6) 若狭小浜藩士矢部岩十郎義比(よしちか)の次男として生まれる。幕末の尊皇攘夷派志士。初名は義質,のちに梅田氏となり定明,通称は源次郎,別号を湖南・東塢とした。藩校順造館で学んだのち,儒者山口管山のもとで山崎闇斎学を修め,大津に湖南塾を開く。しかし藩政や海防策に関して,藩主にたびたび建言したため,士籍を除かれることになった。1853年(嘉永6)ペリーが来航すると,頼三樹三郎・吉田松陰・水戸浪士らと攘夷のために奔走する。また1858年(安政5)条約勅許問題の際には,勅命を大名に下し,攘夷を実行する計画を立て,青蓮院宮らに説いてまわった。さらに将軍継嗣問題では一橋慶喜を将軍にたて,大老井伊直弼の失脚をはかった。このため1858年吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎らとともに逮捕され(安政の大獄),江戸の小倉藩主のもとに幽閉され,病没。赤貧のなかで妻子を失いながら志に生きた一生は有名。