●海 うみ
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地球の表面積の約71%をおおい,太平洋・大西洋・インド洋の三大洋が海の92%を占める。海は各大陸と島々を隔てるとともに,また航海によりそれらを繋ぐ二面性をもつ。地球上に初めて芽生えた太古の生命は,海に起源をもち,今日および将来とも,食糧をはじめ,鉱産資源・エネルギー問題など人類文明の根源のすべては海洋にある。【海の働き】海のなかを,大河のように一定方向に流れる海流は,巨大な水量や熱量を運ぶとともに,そのなかに含有されている各種成分・生物などを運ぶ。したがって,海流は気象・気候はもとより,魚類の回遊・繁殖,民族の移動,文化の伝播にも深い関係をもつ。海流のおこる最大の原因は風であり,海表面から浅層に存在する海流エネルギーの約90%は,卓越風系から得られるといわれるから,動力船登場以前の航海は風と海流とに影響される漂着的航海の要素が大きかった。海流の存在は漂流物の流れ方により古くから知られていた。このことからも海流は,海上を物が移動する際の根本的な意味を物語る。コロンブスが西インド諸島を発見するに際し,絶望のドン底にある船員を勇気づけるのに,陸地の近いことを漂流物で示したという話は名高い。
海流の分類には暖流と寒流に大別する方法がある。大きな海流では,一つの海流が両者の性格をもつこともあるので,この分類法は相対的なものであるが,実生活にもっとも適応性が高いのでよく用いられる。
暖流の主要なものは,北半球のメキシコ湾流(ただ湾流ともいう)と黒潮(別名,日本海流)である。湾流は黒潮よりも流速・エネルギーともに20%くらい優勢なので,その変異が関係地の気候などに及ぼす影響力は絶大である。南半球では,ブラジル海流・東オーストラリア海流・アガラス海流(別名,モザンビーク海流)などが主要なものである。黒潮は日本民族にもっとも関係深い暖流で,フィリピンや台湾東方に源を発し,東シナ海に入り南西諸島海域を通過する。さらに列島を太平洋側と日本海側とを鋏状に北上する。黒紫色を呈する雄大な海流であることから,一般に黒瀬川の異名がある。黒潮の流れが,気候に大きな影響を及ぼし,西南日本における照葉樹林帯の形成に重要な要因をなした。日本沿岸部の各所に,熱帯植物であるハマオモト・ガジュマル・ビンロウなどの植生を見ることができるのは,それらの種子が熱帯地域から黒潮にのって運ばれてきたからと考えられる。黒潮が南方洋上から運びつづける植物のうち,代表的なものに椰子の実があるが,これにヒントを得た柳田国男のその方面における多彩な思考は,晩年の名著『海上の道』に結晶した。柳田はその著書のなかで,海南の島が人を引きつけたものが何であったか,人と文化の動きを考える有力な手がかりとして“黒潮の道”のことを強調した。この海流が運ぶ漂着物や漂流者の保有する文化をはじめとして,文化伝播力は強く,その文化要素はそこに内包される共通性から「黒潮文化」の名で呼んでよいだろう。
寒流の代表的なものは,北半球ではラブラドル海流・東グリーンランド海流・親潮(別名,千島海流)である。南半球ではベンゲラ海流とペルー海流(別名,フンボルト海流)が大きい。とくにペルー海流は優勢で,魚類が豊富であるが,南氷洋の海氷の状態に左右され,グアノ(チリ硝石)の豊凶に直接影響を与える。一般的に,寒冷な寒流ではプランクトンの種類は少ないが量は多く,暖流はその正反対の傾向を有する。日本近海の親潮では,栄養塩やプランクトンに富み,魚介類を豊かに育成する海の親の役割を果たすところから,その名が付けられたといわれる。親潮は,オホーツク海や千島列島近海・ベーリング海などの海水が融けて南下する寒流で,主として三陸海域の幸が豊かである。日本のアジア大陸側には,間宮海峡の窄部より南下するリマン寒流があり,南西方向に流下して朝鮮の咸鏡南北両道の東岸に接近しつつ,江原道沖合に達し,鬱陵島付近まで南下する。ここで対馬西水道より北上する暖流とともに方向を南西に転じながら隠岐島・出雲付近に達する。また,沿海州をずっと沿岸伝いに,北鮮寒流が朝鮮北東部に達している。
海流を察知する指標として,植物の種子・海藻類・漂流船・難破船の破片などが役立つ。しかし,これらに頼ることは,源流海域と漂流の時期を的確に把握できない難点がある。そこで,自然漂流のかわりに,人為的な方法として「漂流びん」や「漂流袋」が使用される。これらには,後日,拾得者が発見地点と日時を記入する欄を設けたはがきが封入されているので,必要事項を記入して返送してもらえば,投入地点と拾得地点とその時間差から海流の方向と速さが判明するわけである。しかし,これだけでは途中の経路や漂着と拾得時とが必ずしも一致しない欠点がある。敷設地点が判明している水雷がどこへ漂着するかを調べた調査結果が参考になる。
日本近海の海流が,科学的に研究され始めたのは1890年(明治23),水産調査会が設けられてからである。日本海を舞台に投瓶実験は,和田雄治が1893年に海軍に依頼したときのもの以来,何十回も放流されて,現在でもしばしばこの方法は用いられている。目を世界に転ずれば,シチズン時計が1974年10月15日,中米コスタリカの沖で投入した175個のブイのうち,1個が768日後に沖縄県宮古島へ,もう1個は780日後に島根県大田市五十猛(いそたけ)町の浜で拾得された実験がある。
【漂流物】〈一頭の鯨七浦をにぎわす〉といわれた。その巨大な哺乳動物を目の前にして,豊かな食糧を満載した船が流れ着くにも等しい想いで,驚嘆の目を投げかけたに違いない。鯨と人間との初めての出会いは,漂着鯨であったろう。見はるかす遠い潮路のかなたから,絶え間なく運び寄せられたくさぐさの寄りもの−−人間の島から島への移住をも含めて−−。寄りもののしやすいところと,そうでないところとがある。半島湾入部・突出部などはとくに寄りものと縁が深い。
その一例として,島根県島根半島西側のかげに稲作の浜がある。対馬暖流のもたらすさまざまな漂着物の吹きだまり場として知られ,かつて流木が100本も漂着し,寄木の神社造営が行われたと伝えられる。なかでもセグロウミヘビの漂着地として注目される。このヘビはその名のように,背面は黒,腹面は黄色を呈し,尾部背面に9個,腹面に2個の波状黒斑がみられる。インド洋から太平洋の暖流に産し,南はアフリカ南端,ニュージーランド,北は沿海州まで達し,日本周辺の南北にその記録をとどめる。出雲海辺では,このヘビを龍蛇と崇め,漂着すると家に持ち帰り,三方(さんぼう)に海藻(ホンダワラ)を敷いて載せ,床の間に迎えて神酒を供える。吉兆として近所の人々や親類縁者を招んで祝う。翌日は佐太神社へ奉納する習いであり,神社には「佐太神社龍蛇神奉納者名簿」が書き綴られている。このヘビは海神の使者に見なされたのであろう。神話の国出雲,そして八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したスサノオノミコト由縁の地でもある。佐太神社の代表的神楽の一節−−八重垣の名で演ぜられる−−のクライマックスは,龍蛇の登場場面であるのも,セグロウミヘビの漂着と無縁ではあるまい。
柳田国男は,〈日本の自然史を調ベ,日本の国土の歴史を考えるとき,昔からこれを豊富にして来たものは,何よりも風と潮とである〉と前置きし,興味深い次のような流木のことを紹介している。〈流木といへば紀州の沖でも,山形,秋田あたりでも聞く話だが,何年かに一通ぐるっと回って来る流木があるといふ。年経てまはりに苔や藻が生え,それに小さな魚などがびっしりとついてゐる。小魚がついてゐるためか,それをまた鰹などの大きな魚の群が後から追いかけてゐる。何処にも漂着しないらしくたしかにあの木にちがひないと思ふ流木を見かけるといふ話であるが,この話など風と潮流の生んだ日本の海岸の一つのロマンスであろう〉。また,18世紀半ばに,若狭(福井県)地方の伝承を広範に探訪,博聞によって記載された貴重な文献『拾椎雑話』に,朝鮮国の山崩れの木の話として,1757年(宝暦7)10月,若州海上に枝葉根つきの3〜4尺から7〜8尺まわりの栂(とが)・五葉松・よこ柳などの生木がおびただしくうち寄せられた。この流木のことは津軽(青森県)から出羽(秋田・山形県)・越後(新潟県),西は石見(いわみ,島根県)あたりまで日本海沿岸部海中にことごとくあり,舟航の障害になるほど満ちていた。日本に天変地異はなかったし,不審に思っていたら,翌年3月に長崎に来航した異国船が伝えるところによると,朝鮮国の山崩れの木であったことが判明したとのことである。流木に託したロマンは限りなくひろがる。朝鮮半島や大陸から,かの地を経由して民族やその文化が,北九州以外の日本海沿岸各地にも上陸伝播したことであろう。
【浜廻り】渚に近く村々をかまえ,日月の出入りを眺めて暮らしてきた海辺の人々にとって,四季のうつろいに応じて彩りを変える海の景色は神秘そのものであるとともに,海のかなたから流れ寄るさまざまなものにもまた,神秘的な想いを寄せてきた。ことに,嵐の止んだ早朝に,一度は海辺に出てみなくては気がすまないような心持ちは,どこの海辺の村々にも残っている。すなわち“浜廻り”の習俗がいつしか身についてしまい,生活の一部とさえなってきた。海から寄り来るものは,その種類を問わず,本来はすべて浦人の所得だったのが,のちにすこしずつ法令でこれを制限したのである。時代の推移により,“浜廻り”の感覚にかなりの相違がみられるようになるのもそのためであり,宗教心の変化とも深く関係している。材木に乏しい海浜・島嶼では,沖から寄せ来る波に材木をもたらしてもらうことに期待するほかはないようなところが,いくらもあった。化学肥料の登場する以前は,ことに藻は重要な肥料で,嵐で打ち寄せる海藻を拾って田畑の肥料にした。“浜廻り”の習俗は,ものが豊かになった今日からすれば,特殊な習慣のようにも考えられようが,以前はけっしてそうではなかった。正月の年占いに,その年の漂着物が多いように祈るところがあった。本州北端下北半島の尻屋崎のムラで,正月の年占いに,大きな釜に小さな船を造って浮かべ,釜の湯をたぎらせて,船のひっくり返る順序でその年の月々の漂着物の多少を判断したという。悪くすると,実際に,嵐の夜に沖を航行する船をおびき寄せて難破を誘発し,積み荷や道具を奪うところもあった。世界のどこの国にもあったこととして知られている。
【神来臨の風と寄りもの】わが国には,神は去来するもの,その折にはきわだった風が,決まって吹くものだという基本的な考え方がある。北睦から山陰にかけての日本海沿岸部では,12月8日に,ハリセンボ(針千本という字を当てる)という棘(とげ)の多いフグ目の海魚が,北西の季節風にのって吹き寄せられるという伝承がある。この日は,全国的にも“コト八日”といって,もの忌みの日とされ,針供養などいろいろな神ごと(神来臨を願う行事)が催され,それらにまつわる伝承が多い。島根県出雲地方や能登半島の鹿島郡では,この日の晩に,子供たちが覆面姿でつくり声をして焼餅を貰い歩く風習があった。この行事の趣旨は,秋田県男鹿半島で盛んに行われるナマハゲとも同じで,遠来の神を迎える儀礼と考えられる。このころを中心に,大陸からの強い季節風とともに,からだに長い針をいっぱいつけた,みるからに恐ろしい針千本の死魚群がうちあげられる。そこで,これを拾って悪魔よけとして軒に吊るすところもある。科学の目でみれば,フィリピン・台湾・沖縄方面の南海で生まれた針千本が,黒潮にのって北上するうちに,冬季間の水温低下と北西の季節風により死滅して漂着するものである。しかし,その時期が“コト八日”のころであることから,ことさら深く印象づけられ,このころの強風を“八日吹きいとかい針千本荒れ”などと呼んで,神来臨の風として受けとめられてきた。
【うつぼ舟と小さ子説話】わが国の神話や民間文芸には,スクナヒコナ神をはじめ,海神小童・かぐや姫・瓜姫などの説話,桃太郎・一寸法師にみられるお伽話の主人公,あるいはまた,東北地方の座敷ワラシ・スネコタンパコ,長野県の小泉小太郎などの地方的俗信にみられるものは,小さ子の童神が人間界に出現してなんらかの福徳願望を叶えてくれるとする一連の観念が認められる。そして,これらの小童がほとんど水辺から出現することが,神来臨の特色ある要素となっている点が注目される。渚に浮かび寄る異常なもの,たとえば死人を納めた木の箱のようなものまで,一括して“うつぼ舟”と呼びならわされている。それは大木の中を刳りぬいた空舟・丸木舟のことであるが,その名称でよぶ場合には,必ずといってよいほど,そのなかには神か高貴なお方や妖怪などが閉じこめられて,海のかなたから漂着したと言い伝えている。鹿児島県大隅半島の牛根(現,垂水〈たるみず〉市)の岡の中腹にある居世(こせ)神社の旧記によれば,大昔,12月29日の夜,一農夫が潮水を汲みに渚に出てみると,7歳ばかりの童子が空舟に乗って漂着していた。童子は欽明天皇の第一皇子だが,雪中庭におり,はだしで土を踏んだので挙動軽々しく,もはや皇位を継ぐ資格はないということで,空舟に乗せて海に流されたものであった。農夫は皇子に奉仕し養育したが,13歳で世を去ったので神社に祀ったという。この伝承は史実でないことはいうまでもない。しかし,高貴なものの流寓に関する古伝を代弁する共通なモチーフをもっている。高貴なものは,すなわち神で,その水界を渡りくる容器として“うつぼ舟”が登場するのは,目に見えぬ神がうつろなもののなかに宿るという原初的信仰に由来するものであろう。この種の類例から推察するに,“うつぼ舟”の原型は瓠(ひさご)であったろうと考えられる。渚に流れ着いた瓠や空洞の木に接した浦人の驚きはいかばかりであったろう。そこに,海のかなたから渡り来る神をとらえる原点があった。
【海神信仰】人類は,海の限りない広さと底知れぬ深さに対し,驚異と憧憬にも似た観念が背中合わせに入りまじった神秘性を抱いてきた。日本では,『古事記』の神生み神話に〈海の神,名は大綿津見(おおわたつみ)の神を生みたまひ〉と記載されている。この神を諸々の海神の主神に位置づける心意は後世まで継承されてきた。しかし,一般には,水神の表象である蛇信仰が,中国伝来の龍信仰と結びついた龍神の同義語として,龍王・龍宮などと呼び慣わしている場合が多い。なかでも,直接海を生業(なりわい)の場とする海民は,もっと身近な対象として,心に念じ口に唱え,あるいはその神の坐(いま)す社に詣でる神々は数多くある。自分の命を託する船に,精霊ともいうべき神が宿っているとし,その神を“船霊”(ふなだま)様と呼ぶ例や,豊漁祈願を念ずるとき,思わず口をついて出る神がエビスであることも全国的にみられる。そのほか,阿曇連(あずみのむらじ)を祖とする志賀海(しがのうみ)神社や,とくに全国的に多く分布する海神には,住吉神社と宗像神社(むなかた)があり,それぞれ神話の世界に深い根をからませているほど由来は古い。また,主として近世中期以降全国に流布したものには,香川県に本社のある金刀比羅神社や山形県の善宝寺に寄せる信仰も多くの信者をもっている。また,大山祇神(おおやまつみ)を祀る神社・小祠も全国にあまぬく分布し,なかでも愛媛県越智郡大三島の宮の浦に鎮座する大山祇神社は,社号を大日本総鎮守といい,大地を支配する大神であるとともに,別名を和多志(わたし=航海)大神ともいって,海神として航海・漁業神として,瀬戸内海の海上生活者の尊信を集めてきた。この大山祇神は,“記”“紀”神話のうち“日向神話”のなかに登場する。すなわち,オオヤマツミの神は,笠沙(かささ)の御前(みさき=鹿児島県薩摩半島笠沙町)付近におり,その娘コノハナサクヤヒメは,日向の高千穂の峰に降臨した天孫ニニギノ命と結婚する。そのあいだに生まれた三つ児の兄弟のうち,長兄が海幸彦で末弟が山幸彦ということになっている。海幸・山幸の交換説話は,隼人(はやと)のあいだに伝承されてきたものとされる。モチーフが酷似する類話は,ドイツの民俗学者レオ=フロベニウスによれば,東南インドネシアのケイ諸島およびセレベス島のミナハッサのものや,ミクロネシアのパラオ諸島にも卓越した分布がみられる。海民たちは,海上では海の神に対する種々の禁忌をきびしく守っている。海神の表象として観念される蛇を口にすることを避ける忌詞(いみことば)は,ナガモノ系統のことばで表現し,沖言葉といわれる。蛇・龍がもっとも嫌うとされる金物類を海に落とすことを著しく嫌う。出産や葬式で忌がかかっているとされる人が海へ出ることもタブーである。海の彼方,または海底には,海神の主神が坐(いま)すワタツミの宮・龍宮があるとする古代人の常世(とこよ)の国・根の国に寄せる思想がみられ,浦島太郎などの説話・伝承は,そうした古代人の思想が素地となって成立したものである。このような海の彼方の聖地を,沖縄や奄美諸島では,ニライカナイとかネリヤなどと呼び,祖霊の赴くところであるとともに,稲や火や鼠などもそこから人間の世界へもたらされたと信じられてきた。海神信仰の基本的なものの一つであるエビス信仰において,その神体が海の彼方から漂着したとするものが多く,九州地方では海中からエビスの神体を迎える儀礼を行うところもある。そのほか,漂着物の項で述べた諸事例や,さらに盆行事に際し,精霊送りと称して海辺や川岸で精霊船を流す習俗は,常世に対して日本人が古来抱いてきた思想が根強く残っている証拠であろう。海草や湖水を海神のよりましとみなし,毎朝,あるいは特定の日に家の門口や神棚・カマドなどに振りかけて浄める習俗が,瀬戸内海沿岸や九州地方にみられる。これをオシオイ(お潮井)と呼ぶ。海に遠いところでは,川や井戸の水を汲み,それに塩を入れて代用とする慣習をもオシオイというところ(和歌山県・新潟県など)があることからも,海水による浄めの慣習は,古くから全国的に行われたものと推測される。葬式の帰りに,家の入口で塩を撒いてから入る習慣や,相撲の仕切りに塩を撒いて土俵を浄めるのも,日本人の海の潮に対する考え方に由来するものであろう。
【海の怪異】海にはさまざまな浮かばれない亡霊が,迷魂をとどめて浮遊し,ことに歳の夜や盆などに出現することが多いという。船や坊主のかたちで現れる船幽霊や船坊主をはじめ,海上一面にひろがる妖火の類が海の怪異として語り伝えられている。九州北部でアヤカシと一般的に呼ぶものが,海の怪異を総称しているようで,海に生きる人びとの感覚を異常にするものをさす。アヤカシの現れる時期や場所の状況には,一面,通じるものがあるようだ。岩手県九戸郡宇部地方の例では,フナモーレーというものが,時化(しけ)のとき黒い船となって現れる。そして柄杓(ひしゃく,船中にたまるアカを汲み出す道具)を貸せという。そういうときはけっして声をかけてはいけない。その場合,必ず柄杓の底を抜いて貸すものだという伝承も全国的である。その理由として,船中が海水でいっぱいになり沈没するからといわれている。海難者が現世のものに恨みをもって,友引きにくるからだと説明される。防御法として,歳の夜の豆を“福は内,鬼は外”と呼んで,幽霊の出た方向に撒く事例も各地で伝承されている。
【海の生活に根ざしたことば・諺】ディーゼル船が使われ,一部には原子力船も現れて船の近代化時代を迎えている。多くの日本人は海に背を向けた生活にも等しい今日ではあるが,海と深いかかわり合いをもった時代の生活に根ざしたことばや諺には,日常生活上の知恵が秘められ,脈々と受け継がれていることに気づく。たとえば,“出戻り”といえば,嫁が不縁になって生家にリターンして戻ることをいうが,もともとは帆船時代に出港した船が再び港に舞い戻ることばに由来するといわれる。“日和見”ということばも,もともと,帆船時代の日和見がいかにむずかしかったかを,今日,無意識のうちに使っているのであるが,この類のことばや諺はまだほかにも多い。
〔参考文献〕石井忠『漂着物の博物誌』1977,西日本新聞社
日下実男『海洋文明学入門』1976,社会思想社
西村朝日太郎『海洋民族学』1974,日本放送出版協会
宮本常一・川添登編『日本の海洋民』1974,未来社
北見俊夫『日本海上交通史の研究』1973,鳴鳳社
桜田勝徳『海の宗教』1970,淡交社
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