●ウマイヤ朝 ウマイヤちょう
AD661
661〜750 シリアのダマスクスを首都としたイスラーム王朝。東はインド北西部から西はスペインにいたる広大な領域を支配した。イスラームの預言者ムハンマドの没(632)後,イスラームの旗のもとにまとまったアラブ人は,ササン朝ペルシア帝国を滅ぼしてその領土を征服し,東ローマ帝国(ビザンツ)を破ってシリア・エジプト・北アフリカの地を奪った。その際,アラブ人戦士の最高指導者はカリフと呼ばれていた。初代から第4代までのカリフを,一般に,正統カリフと呼ぶ。第5代カリフ,ムアーウィヤ以後の14代のカリフはすべてウマイヤ家からでた。そのため,この間をウマイヤ朝と呼ぶ。ウマイヤ朝期も,アラブ戦士は征服活動を続けた。東ではムハンマド=ビン=アルカーシムに率いられてインド北西部に進出した(712〜713)。北東ではクタイバ=ビン=ムスリムが活躍し,706年にはフェルガーナ地方まで進出したが,その後は中央アジア草原に覇を唱えていたトルコ系遊牧民の勢力と対峙し,マーワラー=アンナフル(今日の西トルキスタン)地方を奪ったり奪われたりした。北では,アナトリア(今日のトルコ共和国)をめぐって東ローマ帝国と戦い,ときには首都コンスタンティノープルにまで迫った。西では,カイラワーン(今日のチュニジアにある)に軍事基地都市を建設して(670),北アフリカ土着のベルベル人を武力で抑え,さらに711年にターリク=ビン=ジヤード,翌年にムーサーがアラブ人戦士とべルベル人改宗者を率いてアンダルシア(今日のスペイン・ポルトガル)に進出した。アンダルシア征服後は,南フランスにたびたび略奪にでかけ,732年にトゥール=ポアティエの戦いでフランク軍に一敗地にまみれたが,その後も略奪行を繰り返した。このような征服活動の結果,ウマイヤ朝の領土は,その後のいかなるイスラーム王朝よりも大きく,またかつてのアレクサンドロスの帝国やローマ帝国に優っている。ウマイヤ朝は,基本的には,アラブ戦士による征服王朝であった。各地に建設された軍事基地都市に住む数十万人のアラブ戦士が,広大な領域に住む数千万人の多様な人々を支配した王朝である。支配者であるアラブ戦士は,被支配者にイスラームを強制せず,彼らが税を納めれば保護した。アラブ戦士は,アラビアのメッカとメディナ,イラクのクーファとバスラ,北西イランのマルウ,シリアのいくつかの都市,エジプトのフスタート,北アフリカのカイラワーン,アンダルシアのコルドバといった各地に設けられた軍事基地都市に住んだ。彼らはそれぞれの基地都市で登録され,年金と必要な食糧を政府から受けとった。年金の額は,原則として,戦功に応じていた。各基地都市の駐屯軍が征服した地方が,その基地都市の総督が支配する領域であり,その支配領域の被征服民から税を集めること,集めた税を年金などの形で駐屯軍の戦士に分配すること,納税を拒否した被征服者の集団や未征服の集団と戦うため戦士を率いることが,各基地都市の総督の任務であった。領土があまりに広大であるため,各基地都市の総督は日々の政治について中央のカリフから強く規制されることはなかった。その意味では,ウマイヤ朝の体制は地方分権的であった。しかし総督の任命・罷免の権限はカリフが保持していた。またどの基地都市にいようと,戦士たちは,アラブ人であり,イスラーム教徒であり,征服者であるという確かな自己認識をもっていた。その意味ではウマイヤ朝はまとまりのある国家であった。一方,被征服者には国家レベルの政治への発言権はなかった。しかし,支配者であるアラブ人に税を納めている限り,都市・村落レベルでの,あるいはときには小地域レベルでの自治が許され,キリスト教・ユダヤ教・ゾロアスター教などの旧来の信仰の保持を認められた。広大な地域にある被征服民の無数の小規模の自治体のそれぞれが,各自の責任でアラブ人の軍事基地都市のいずれかに納税し,自治と信仰の保持を認められていたのである。税額は,それぞれの自治体がかつてペルシア帝国か東ローマ帝国に支払っていた額より高いことはなかった。
ウマイヤ朝の基本構造は,各地の軍事基地都市のアラブ人が,ダマスクスのウマイヤ家のカリフを中心にした協同の力で,膨大な被征服民の数々の自治体の個々を支配する,という形であった。しかし,ウマイヤ朝の歴史は,この基本構造の崩壊の過程でもあった。この基本構造は,ウマイヤ朝成立以前の第2代正統カリフ,ウマル(在位634〜644)の時代に,すでに完成していた。ウマイヤ朝はそれを量的に拡大したが,同時に崩壊させたのである。そもそもウマイヤ朝の成立は,第3代正統カリフ,ウスマーン(彼もウマイヤ家の人)の過激派イスラーム教徒による殺害(656)に端を発するアラブ人戦士の内乱の結果であった。ウスマーンの復讐のために立ったムアーウィヤが内乱をおさめ,ウマイヤ朝初代のカリフとなった(在位661〜680)が,内乱はアラブ人戦士のあいだに解消しえない対立をもたらしていた。20年にわたる彼の治世はともかくも戦士のあいだの表面的統一を保ったが,彼の治世の晩年の,カリフ後継者を生前に指名するという前例のない政治行為,しかも指名されたのが息子のヤジートであったという事実は,次の内乱の火種となった。それは,彼の死後,第4代正統カリフ,アリーの息子フサインが新カリフ,ヤジードの派遣した軍により殺害されるという,いわゆるカルバラーの悲劇に始まる第2次内乱(683〜692)を招いたのである。一時期,まったくの小勢力となったウマイヤ家は,第5代カリフ,アブドゥル=マリク(在位685〜705)とその将ハッジャージュの力によって,メッカによって多くの基地都市の戦士からカリフと認められていたイブン=アッズバイルを倒して,内乱をおさめた。しかし,この内乱,さらには700年におきたイラク駐屯軍の反乱(イブン=アシュアスの乱)によって,アラブ人戦士の統一は完全に崩れた。これらの乱の結果,各基地都市には登録を抹殺され年金を受けとる権利を失ったアラブ人が多数でた。彼らのあいだでは反ウマイヤ家の,シーア派など今日のイスラーム少数派のもととなった政治的党派・宗派の力が強くなっていった。中央政府はこのような傾向に対処するため,ウマイヤ家のカリフに忠実であったシリア駐屯軍を各地に派遣して力を誇示した。アラブ人戦士の一部が他のアラブ人戦士を支配するようになったのである。一方,被征服民のあいだでも,イスラームに改宗しアラビア語を習得した者が増加していった。彼らは,ときには戦士としてアラブ戦士とともに戦った。彼らはマワーリーと呼ばれたが,マワーリーのあいだでアラブ人戦士との差別待遇に対する不満が強くなっていった。また農村の改宗者は税の負担の平等を求めるようになった。第8代カリフ,ウマル2世は,税制改革を試みた。彼は,かつてアラブ戦士が征服した土地はイスラーム教徒の共有地であるとして,その土地の所有者はイスラーム教への改宗者であろうと異教徒であろうと,共有地の使用料としての土地税(ハラージュ)をイスラーム教徒全体のために支払わねばならない,との理論を採用した。そしてハラージュ以外に,イスラーム教徒は十分の一税(ウシュル),異教徒は定額の人頭税(ジズヤ)を支払うこととした。結果においては,イスラーム教徒の農民も異教徒の農民も同じような税負担となるが,それまで税は旧来からの慣例で徴収されていたのが,イスラーム法的な税制となったわけである。それとともに,“征服王朝”という基本構造は,建前としては否定されることとなった。
アラブ人には南アラブと北アラブという出身意識があったが,この意識が政争にも関連しはじめ,各基地都市の総督の地位をめぐって南派と北派が争いはじめた。さらにウマイヤ家の内訌もあって,第10代カリフ,ヒシャーム(在位724〜743)死後,ウマイヤ朝は,ウマイヤ家・シリア駐屯軍・アラブ人戦士とマワーリー・イスラーム教徒農民と異教徒農民といったすべてのレベルで統一が保てなくなり,新興のアッバース朝によって滅ぼされた。ウマイヤ家の一族はほとんどすべて殺されたが,ただ一人アブドウル=ラフマーンが生き残って,やがてアンダルシアに渡り,後ウマイヤ朝をその地にたてた。