●宇宙開発 うちゅうかいはつ
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古来,人間の成し遂げた偉大な仕事のなかには,“夢”から始まったものが多い。宇宙開発も,その典型的な一例である。【宇宙開発の先史】ギリシア神話の青年イカロスは,父のダイダロスとともに,ロウで貼り合わせた羽根をつけて天に上って行った。父は,太陽の近くを飛んではいけないと注意したが,彼は聞かずに近寄り過ぎたため,ロウが溶けて海に墜落,溺死してしまう。さしずめ,イカロスは人類の“宇宙飛行士第1号”であり,また“犠牲者第1号”でもあった。世界最古のSF作家は,前2世紀のシリア人,ルシアンである。彼は仲間と一緒に船に乗って大西洋に出かけるが,暴風雨に遭って月世界まで吹き飛ばされ,そこで月人と日人との奇想天外な戦闘場面を目撃する,という筋書きである。しかし,この物語に対する文学者たちの批判を恐れた彼は,最後の文章を〈諸者よ,注意せよ。ここに書かれたことは,すべて架空で,全部デタラメ〉と結んだ。8世紀の中国には,唐の玄宗皇帝が仙術で月宮殿に遊んだ,という伝説が残っており,9世紀末の日本には,かぐや姫の『竹取物語』が生まれている。
17世紀に入ると,ガリレオが望遠鏡を発明して,月の山や谷を観測したことから,ルキアノスの小説が見直されてブームを呼んだといわれる。次いで,ケプラーが天体運行の三法則を発見し,ニュートンが万有引力の法則と運動の三法則を確立して,人工衛星の可能性をも予言するなど,宇宙の科学知識が急激に豊富となり,それとともに宇宙SF作品もまた活況を呈するようになった。ケプラー自身も,妖精が人間を月世界に連れ出す小説を書いたが,19世紀に入ると,ベイルの『煉瓦の月』(1820),ベルヌの『地球から月ヘ』(1865),ウェルズの『月面上の最初の人間』(1897)などが相次いで出版され,人々の宇宙への空想を刺激した。とくにベルヌの小説は,3人を乗せた砲弾型の宇宙船を,フロリダ海岸の地面直下に掘りこんだ巨大な大砲で月に打ち出す,という突飛なものであるが,地球脱出に必要な速度を秒速11.1kmと計算したことや,地球への帰還にあたって逆推進ロケットによる減速を図ったことなどが,宇宙船内における無重量状態の克明な描写とともに,今日の科学に照らしても正確に,興味深く記述されていて,母国フランス以外の若者達にも広く愛読された。後に宇宙開発の二大先駆者と尊敬されるようになったロシアのチォルコフスキーや米国のゴダードも,少年時代にベルヌの小説を熟読したということである。チォルコフスキーは,ほとんど独学で孤立した研究のなかから,『ロケットによる宇宙空間の探究』という論文を著し(1889),多段式ロケットや液体ロケットの必要性を強調した。ゴダードも,孤独な研究に没頭して,液体酸素とガソリンを用いる世界最初の液体ロケットをつくって打ち上げ(1926),以後もその研究開発に一生を捧げた。しかし,2人はともに人とのつき合いがきわめて不得手な性格のゆえもあって,生前はあまり世に認められることもなくして死去した。彼らが“宇宙飛行の父,チォルコフスキー”“近代ロケットの父,ゴダード”などと尊称されるようになったのは,死後,それも人工衛星スプートニクの飛行以後のことである。
ハンガリー生まれのドイツ人,オーベルトも孤独な研究を続けて“ロケットによる惑星間飛行”の論文を書いたが(1923),教授たちの評価は惨めであった。しかし,彼が参加してつくった空想科学映画『月世界の少女』が予想外の大好評を博した。今日,ロケットを打ち上げる際に必ず行われる秒読み“……,3,2,1,0”は,この映画のなかで試みられたものである。彼は宇宙マニアたちに推されて,ドイツ宇宙旅行協会の会長となり,液体ロケットの製作と実験を始めたが,あとに有名となったフォン=ブラウンも,そのころに参加した熱心な若手の一員であった。オーベルトのロケットはやがてドイツ陸軍の注目するところとなり,彼自身は出生地の関係などもあって,軍の研究から外されたが,軍は資金を出してペーネミュンデ=ロケット研究所を新設し,第二次世界大戦末期には有名な報復兵器V2ロケットを開発した。V2は終戦までに4,000発もつくられ,イギリス・ベルギーなどに打ち込まれて敵側を恐怖に陥れたが,味方の頽勢を挽回するにはいたらなかった。しかし,その液体推進エンジン・機体構造・誘導制卸など,ロケットの重要な基本的技術はすべて具備していた。この開発に携わった技術者たちは,戦後,分かれて米国とソ連に移り,それぞれの国における宇宙開発に大きく貢献したが,とくに米国において,決定的な役割を演じた。
【宇宙時代の開幕】人工衛星の打ち上げを最初に発議したのは,1953年度のIGY(国際地球観測年)委員会である。世界の地球物理学者たちは,25年を周期とする太陽活動の盛んな年を選んで共同観測を行っているが,1953年度の委員会において,1957年7月1日から翌年12月末日の期間に,南極観測とともに,ロケットおよび人工衛星による大気圏上層部の観測を決議した。米国のアイゼンハワー大統領は直ちにこれに応じて,バンガード=ロケットによる人工衛星打ち上げ計画を発表した。米国は満々たる自信をもって準備を進めていたが,その機先を制して,ソヴィエトは1957年10月4日にスプートニク1号を地球をまわる楕円軌道に乗せた。史上初の人工衛星は,ピーピーという断続音を発しながら地球をめぐって,“宇宙時代”の開幕を告げた。
スプートニク1号の成功は全世界に大きな衝撃を与えたが,何よりも米国を慌てさせた。米国は,急遽,陸軍兵器廠にいたフォン=ブラウンを登用したが,彼は期待に応え,軍用弾道弾を改装したジュピター=ロケットを用いて,1958年1月31日に米国初の人工衛星エクスプローラ1号を打ち上げた。また,同年3月17日には,それまで失敗を重ねていたバンガード=ロケットも,米国第3号衛星を打ち上げて面目を保った。しかし,米国の衛星重量がせいぜい10kG少々であったのに対し,ソヴィエトの重量は数百kGにも達してライカ犬を乗せたりしていた。米国はこの遅れを挽回すべく,新たに航空宇宙局NASAを設置するなど,総力を結集して,ソヴィエトとのあいだに国威をかけた激しい宇宙開発競争を展開した。
1961年4月12日,ソ連のガガーリンが人類初の宇宙飛行に成功すると,それから4週間もへない5月5日に,米国のシェパードは15分間の弾道飛行をして着水した。さらにその20日後の5月25日には,ケネディ大統領が議会演説を行って〈米国は1960年代が終わる以前に,月に人間を送り,無事に地球に帰還させる〉と,アポロ計画を宣言した。こうして米ソの宇宙競争はますます激しさを加えたが,ソ連は常にリードを保ち,世界初の女性宇宙飛行士(1963年6月),初の3人乗り宇宙船の飛行(1964年10月),初の宇宙遊泳(1965年3月),初の月面パノラマ写真の送信(1966年2月),初の無人機月面周回(1968年9月),初の有人宇宙船ドッキングと飛行士の相互移乗(1969年1月)と優位に立ち続けた。しかし,1969年7月20日,米国のアポロ宇宙船11号が月面に到達して,アームストロング・オルドリンの両宇宙飛行士が人類史上初めて月面に立った。米国はこの実況をテレビ電波で世界に放映し,ついにソ連に追いつき,追いこしたことを実証した。アポロ計画の発足から8年の歳月をかけ,当時の邦貨に換算して8兆円をこえる巨費を投じて成就した空前の大偉業であり,人類の夢の実現であった。
ところが,この成功の直後に,米国納税者の間から,限られた少数の人間を月に送るだけのことに,かくも膨大な国費を投じてよいものかという批判の声が上がった。当時の米国には,黒人問題,ヴェトナム戦争など,未解決の難問が山積していた。結局,アポロ計画は,当初21号機までを月に送る予定であったものを縮小し,17号で打ち切ることとなった。後に判明したところでは,ソ連はかなり早い時期に,あまりにも困難で巨費を必要とする有人月飛行を断念し,無人機による月面探査に切り替えていたといわれる。ともかく,米ソ両大国が互いに国威を賭けて宇宙の先陣を競った時代は一応の終わりを告げ,代わって,互いに協力して開発を進めようという機運が芽生えてきた。その最も端的なあらわれが,アポロ・ソューズ両宇宙船のドッキング飛行であったが(1975年7月),残念ながら,協力ムードはこの時を頂点として,以後は再び遠のいてしまった。
しかし,米ソの激しい競争に伴って,宇宙技術は急速に進歩し,科学研究の面においても,実利用の面においても,飛躍的な発展を遂げた。前者にあっては,地球周辺のみならず,月・金星・火星・木星・土星等にまで解明が進み,後者にあっては,気象衛星・通信衛星・放送衛星・地球観測衛星などが次々に打ち上げられ,世界各国,各人の日常生活に深く結びついて行った。また,米国においては,アポロ計画の縮小によって余剰品となったサターン=ロケットの2段目を改造したスカイラブ(宇宙実験室)を打ち上げ,宇宙飛行士がその中に長期間滞在して,各種の宇宙実験を行った。また,ソ連も,宇宙ステーション機サリュートを打ち上げ,その中にソューズ宇宙船から乗り移った飛行士たちが長期滞在して各種の実験を行い,現在もそれを継続実行している。これから,米ソの宇宙実験の目ざましい成果が,後述の宇宙基地計画を発足させることとなった。
【新宇宙時代の到来】宇宙時代を招来したロケットの功績はまことに顕著であるが,従来のロケットは,初めに用意した燃料を使い切ると,そこで任務完了とばかりに,まだ十分に使うことのできるエンジン本体や制御装置などを措し気もなく放棄してしまう,いわゆる“使い捨て方式”の不経済なものであった。そこで米国のNASAは,これを改め,使い捨てることなく地上に回収し,燃料を補給する“再使用方式”のスペースシャトルを開発した。スペースシャトルは1981年4月12日に初飛行を行って以来,しだいに飛行頻度を増して,1980年代後期には年間24回の飛行予定を立てている。これによって,従来のロケットとは比較にならない大量の搭載物を,頻繁に,効率よく宇宙に運び,地球を周回する軌道船の内部において,各種の研究・実験・観測を行ったり,軌道船から静止衛星の打ち上げを行うことのほかに,宇宙飛行士の船外活動などによって,漂流中の故障衛星を修理再生したり,従来のロケットの燃え殻などの宇宙浮遊物を清掃する役割を果たすことも期待されるようになった。情報によれば,ソ連も再使用有人宇宙機の研究を熱心に進めている模様であり,欧州宇宙機構(ESA)も小型ながらシャトル機の開発を計画している。
ところで,米国のレーガン大統領は,1984年1月25日の年頭教書演説において,NASAに対して今後10年以内に,恒久的有人宇宙基地(スペースステーション)の最初のものを建設することを指示し,国際協力のもとに計画を推進する決意を表明した。計画の詳細はなお検討中であるが,基本構想によれば,1992年ころを目途に6〜8名が居住する宇宙基地を完成し,以後,順次拡張して,2000年ごろには12〜18名が居住する規模とするもので,仏・西独・伊・カナダ・日本をはじめとする諸外国に対して,基地の利用および建設への積極的な参加を呼びかけている。また,最初の宇宙基地完成までの開発予算約80億ドルはNASAが全部負担するが,以後の開発に対しては諸外国の出資をも歓迎している。ソ連は,前記のように,すでに小型スペースステーションともいうべきサリュートを保有しているが,鋭意その拡大計画を練っている模様である。
いずれにしても,このようなスペースステーションの実現と大型化が進むにつれて,有人無人のモデュール・プラットホーム・フリー=フライヤーなどによって構成される群団が飛び交うことになるであろう。それによって,宇宙の科学研究は一段と飛躍的に進歩し,また実利用面における宇宙実験所・宇宙工場・大型宇宙発電所なども建設され,さらに,その一方において宇宙観光や宇宙レジャーを楽しむ機会も多くなり,人と宇宙のつながりは一層濃密になるものと予想される。
【各国の動向】米ソ以外の諸国における宇宙開発は,両国に比べると大きく遅れて引き離されているが,そのなかでは,まずフランスが1965年11月26日に,ディマン=ロケットを用いて人工衛星A-1を打ち上げ,自国のロケットで自国の衛星を打ち上げた世界第3番目の国となった。ついで日本がラムダ=ロケットを用いて人工衛星「おおすみ」を打ち上げ(1970年2月11日),世界第4番目の国となった。その2カ月後の4月21日には,中国が第5番目の国となって衛星を打ち上げ,「東方紅」のメロディーを宇宙から送信した。イギリスは早くから弾道弾の開発を進めていたが,同国としては最初にして最後となった自国のブラックアロー=ロケットによる自国衛星プロスペロの打ち上げが成功したのは1971年10月28日であった。その後,インドも1981年3月31日SLV-3ロケットで人工衛星を打ち上げたが,上記以外に自国のロケットで自国の衛星を打ち上げた国はあらわれていない。仏・英・西独・伊などの諸国は,それぞれ独自のプログラムとは別に,連合して欧州ロケット開発機構(ELDO)と欧州宇宙研究機構(ESRO)を組織していたが,両機構は合体して欧州宇宙機構(ESA)となって発足した(1975年5月31日)。ESAは,静止衛星の打ち上げを主体とするアリアン=ロケットを開発して,南米ギアナのクールー基地から打ち上げる一方において,米国の計画にも参加して,スペースシャトルに搭載する宇宙実験室(スペースラブ)を建造し,さらに宇宙基地計画にも積極的な意欲を示すなど,多彩な活動を展開している。アリアン=ロケットの開発にはフランスが主役をつとめ,スペースラブでは西独が中核となっており,宇宙基地に対しては全体的に検討している。中国は,前記の後も宇宙開発を進め,打ち上げた衛星の回収等にも成果をあげている。また,欧州諸国・カナダ・ブラジル・インド・インドネシア等の諸国が,米国あるいはソ連のロケットによる衛星打ち上げを行っている。日本も米国に依頼して静止衛星を打ち上げたことがある。
【日本の宇宙開発】日本の宇宙開発は前記の1957〜1958年のIGYへの参加によって始まった。その前々年に,鉛筆のように小さなペンシル=ロケットの実験から出発したロケット技術はこれによって急速に進歩した。もっとも,IGYの期間中には必ずしも所期の成果をあげたわけではなかったが,数年をへた1970年(昭和45)2月11日に,3段式ラムダ=ロケットによって初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げることに成功した。ソ・米・仏につぐ世界第4番目の快挙であった。ロケットはさらに改良されてミュー=ロケットとなり,既に,十数個の科学衛星を打ち上げ,数多くの貴重な学術成果をあげている。現在は文部省宇宙科学研究所の所管にあって,改良型ミュー=ロケットによるハレー彗星の探査プローブ打ち上げなども計画されている。
一方,1969年(昭和44)10月1日に設立された宇宙開発事業団は,従来からの国内技術に米国からの導入技術を加えて開発したNロケットにより,1975年(昭和50)9月9日に最初の人工衛星「きく」を打ち上げ,翌々年の2月22日には「きく2号」を打ち上げ静止軌道投入にも成功して,米・ソにつぐ第3番目の静止衛星打ち上げ国となった。その後,宇宙開発事業団は改良型のN‐IIロケットを用いて気象衛星「ひまわり2号」を静止軌道にのせたのに続いて,重量350kG級の静止衛星を次々に打ち上げて,一般の日常生活にも大きく貢献している。また,液体水素エンジンを備えて重量550kG級の静止衛星打ち上げ能力をもつH-Iロケットの開発が進んでおり,さらに2トン級静止衛星打ち上げ能力をもつH-IIロケットの開発計画も始まっている。
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