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●内村鑑三 うちむらかんぞう

AD1861 

 1861〜1930(文久1〜昭和5)明治・大正・昭和の初期を通じて活躍したキリスト教徒であり,日本プロテスタンティズムの最初の世代に属する思想家である。また,無教会キリスト教の創始者として知られている。1861年3月23日(万延2年2月13日)江戸の高崎藩武士長屋に生まれる。幼少のころから武士の長子としての厳格な儒教(陽明学)をほどこされた。維新とともに古い儒教から新しい西欧の学問に転じ,藩の英語塾に学んだのちの1874年(明治7)に東京外国語学校に入学,1877年には札幌農学校の第二期官費生となって北海道に渡った。農学校ではクラーク博士の残していったキリスト教に感化され,翌年洗礼を受けた。卒業して官職に就いたが,その一方で教友とともに外国宣教師からの独立・自給・簡易信条などを特色とする札幌基督教会を1882年に創立した。これは日本プロテスタンティズムの原流の一つとして,「横浜バンド」や「熊本バンド」と並んで「札幌バンド」と呼ばれるようになった。翌年札幌県御用掛を辞めて農商務省に勤め,東京のキリスト者との交りを深めた。1883年の「信仰復興」運動を経験して熱狂的な信仰に高まり,その自由な雰囲気のなかで知り合った女性と結婚したが,半年後には離婚することになった。失意の底で追われるようにして,あてもないまま1884年末アメリカに渡った。ペンシルヴァニアの養護学院で働いたのちに,アマースト大学,続いてハートフォード神学校に学んで,1888年伝導者の資格を手にして帰国したのであった。おくれた日本をキリスト教で救うには教育の普及以外にないと考え,帰国直後に招かれた新潟の北越学館教頭の職に就くが,わずか4カ月でその地位を追われた。嘱託となっていた第一高等中学校で,1891年教育勅語奉戴式で天皇の宸署に敬礼するのを良心の自由に対する侵害だと拒絶したので,辞職に追い込まれた。不敬漢内村はその後2年余り各地を漂泊したあげく,3年余り京都の一隅に世捨人のように閉じこもって赤貧に耐えた。生存の道を筆に求め,『基督信徒のなぐさめ』(1893)をはじめとする名著を次々と世に送った。1894年「国民之友」に「日清戦争の義」を書き,この戦争は義戦であることの見解を表した。1897年には黒岩涙香の招きに応じて「万朝報」の英文欄を担当した。流転の生活を清算して文筆活動に専念し,独自の足跡を残した。単なる文筆家でも学究の人でもなく,きわめて実践的であった。広く取材し,一貫した論旨,燃えるような愛国心や正義感に満ち,とくに社会的不正義を攻撃した。黒岩の主宰する“理想団”の会員となり社会問題に取り組んだ。あるいは足尾銅山鉱毒の被害地を訪れ,政府や鉱山所有者古川市兵衛を糾弾した。日露戦争についてはキリスト教の立場に立って絶対非戦を主張し,万朝報を退社した。その後は一線から退いて,わずかな人を対象にした聖書の講義,そして「聖書之研究」誌や伝導に打ち込んだ。その誌面では,キリスト教だけの問題だけではなく,世界や日本の問題を広く取り上げ大胆に発言した。またその一方で,「聖書之研究」の購読者と内村の主宰する研究会に集まる人々とともに,無教会派と称される独自のキリスト教団を創設した。1930年(昭和5)3月28日キリスト者として70歳の生涯を終えた。内村の無教会キリスト教は,キリスト教の本来の姿に戻ることによって,洗礼や聖餐を初めとする教会制度を絶対視することや,キリスト教を文明と同一視したりすることを拒絶し,世界と日本の現実を激しく批判するラディカルを特徴としていた。そのために内村は同じ時代のキリスト教会からはしだいに離れていったけれども,国木田独歩正宗白鳥有島武郎志賀直哉小山内薫たちは,大なり小なりの影響を受けた。他の主著に『求安録』(1893),『余は如何にして基督信徒となりし乎』(1895)がある。

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