●ウズベク社会主義共和国 ウズベクしゃかいしゅぎきょうわこく
アジア 日本 AD
中央アジアに住むチュルク系民族の名称で,1980年現在ウズベク族の人口は約1,250万人と推定される。チュルク語系のウズベク語を使用し,宗教はほとんどがスンナ派のイスラーム教徒である彼らは,その9割がウズベク社会主義共和国の基本人口で,ほかはキルギス社会主義共和国やカザフ社会主義共和国などに属している。チュルク化の進んだキプチャク=ハン国の遺民が南下したものに起源が求められ,ウズベクの名称も,キプチャク=ハン国最盛期の第9代可汗ウズベク(在位1313〜1340)に由来している。1380年チムールの支援によりキプチャク=ハン位についた白帳=ハン国のトクタミシュは,やがてチムールと対立し,その攻撃によって首都サライは破壊され,キプチャク=ハン国は事実上崩壊する。そのころキプチャク=ハン国の開祖ジュチの弟シャイバーンを始祖とする一族によって糾合されたチュルク=モンゴルの諸部族が,アラル海北方の草原に,シャイバーニー朝の母胎となる一勢力を形成する。これがウズベク族のおこりといわれる。やがてそのアブル=ハイル=ハーン(1413〜1468)は,チムール帝国よりシル河一帯を奪ったものの,彼の死後シャイバーニー朝はいったん崩壊する。これと前後して分立した一派は天山山脈西部のチュー河畔に移り住み,冒険者を意味するカザクの名を得るが,彼らが現在のカザフ人の祖先である。アブル=ハイル=ハーンの孫シャイバーニーは,服属していた東チャガタイ=ハン国から身をおこし,チムール帝国末期の混乱に乗じて,1500年にはボハラを占領,ここにシャイバーニー朝を再建し,ほぼ西トルキスタン全域を勢力下に組み入れる。しかしスンナ派イスラーム教を奉じるウズベク族は,シーア派のサファビー朝ペルシアと対立し,そのシャー=イスマーイールのホラーサーン侵入などを蒙り,1510年抗争のうちにシャイバーニーは陣没する。その隙にチムールの子孫バーブルがサマルカンドを占領するが,ウズベク族はこれを撃退し,以後シャイバーニー朝は16世紀末ごろまで,サマルカンドを首都に,アム河東北部の西トルキスタンを支配する。一方,1512年にはシャイバーニー朝の縁者イルバルスが,シャイバーニー死後ホラズム一帯を占領していたサファビー朝勢力を駆逐し,シャイバーニー朝からも独立したウズベク族の国を建設する。盛時の首都ヒヴァにちなんでヒヴァ=ハン国と呼ばれるこの国は,遊牧勢力や同じウズベク族のボハラ=ハン国との抗争に苦しむが,17世紀中ごろには,チャガタイ=トルコ語の史書を残す,歴史家としても有名なアブル=ガージー=バハドゥルハーンを生んでいる。また1717年には獅子王ガージーが,ロシアのピョートル1世が送った中央アジア遠征軍を撃破している。しかし1740年にはアフシャール朝ペルシアのナーディル=シャーの征服を受け,そのころから混乱していた王統もイナク家に代わられる。イナク朝ヒヴァ=ハン国は,19世紀前半には一時版図をひろげたものの,1873年ロシアの保護国となった。シャイバーニー朝の本国では,1599年その家系が絶えるが,代わってボハラを中心にウズベク族の国をおこすのが,1556年イヴァン4世に滅ぼされたアストラ=ハン国の一族である。このアストラハン朝(ジャーン朝ともいう)ボハラ=ハン国は,16世紀後半に全盛期を迎え,ボハラ商人は東西交易に活躍するが,1740年ヒヴァ=ハン国同様ナーディル=シャーに征服される。独立回復後は,マンギト朝のもと一時国威を振ったものの,1868年にはボハラ=ハン国もロシアの保護下に入る。このボハラ=ハン国治下のフェルガナ盆地から18世紀初頭に台頭するウズベク族の国が,コーカンド=ハン国である。この国は清朝とロシア間の中継貿易の利により国力を蓄えると,しばしばイスラーム教徒の独立運動を利用して,清朝治下のカシュガル方面ヘの進出をはかった。しかし19世紀中ごろの内紛はボハラ=ハン国の侵入を招き,結局1876年にはロシアに併合された。その後ロシア革命の結果,1920年ヒヴァ=ハン国・ボハラ=ハン国はともに滅び,これに旧コーカンド=ハン国を加えたものを前身として,新たにタシュケントを首都に成立するのが,ウズベク社会主義共和国である。