●氏子 うじこ
アジア 日本 AD
氏神の子孫・末裔,あるいは各神社の祭祀圏を構成する住民のことをさす。祭祀圏は,この場合とくに神社を中心に慣習として定まった地域にあることを要点とし,その地域のことを氏子区域と呼ぶ。そして,その圏内の居住者を氏子といい,圏外からの信者を崇敬者と呼び区別している。氏子と氏神の関係は古代社会における氏族集団の成員すなわち氏人と,その守護神すなわち氏の神に由来しており,ある地域の信仰上のまとまりを表している。たとえば物部氏の石上社や藤原氏における春日社など。氏子という概念ができあがっている神社の場合には,多くはその神社を中心とした地域的封鎖性が存在しているが,それらは伝統的な村落共同体を基盤としている。中世以来の氏族制社会の崩壊と郷村制社会の成立発展に即し,その意味内容が変化してくる。文献上では氏族祭祀は『続日本紀』の和銅7年(714)2月の条に初見があり,大倭忌寸(やまとのいみき)が氏上として,神祭を命じられている。また895年(寛平7)の太政官符によると,当時すべての人々は毎年氏神祭を行っており,これは祖先の常祀だったらしい。記紀神話など多くの古典から,少なくとも古墳時代以来の氏族祭が推定できる。奈良時代末期に藤原氏が盛んに春日神を祭るほか,官人が各氏族祀のため休暇を得た形跡もみうけられる。氏神をまつるのは氏子の特権であり,五位以上の官人は官符をもたずに畿外に出ることも許され,ときには正税をもって旅費にあてられるなどの待遇を与えられていたようである。平安時代後半,律令制度が形骸化し,神社における氏族祭祀が困難になると,各神社が独自の信徒団を形成し,これを氏人と呼ぶようになった。鎌倉期から室町期にかけて,畿内およびその周辺が発達してくると,そこでの社寺の祭祀団や信徒団にも氏人の名を用いるようになった。この名が古代氏族の権威を象徴するところから,伊勢・賀茂・春日・住吉・多賀などには氏人衆と称する特権的な祭祀団が中世を通して存在した。氏子とは,もともと某家子女の意味であったが,中世の伊勢神宮の神職文書では氏人と混同され,やがて畿内の地方文書や神社文書では,氏人を氏神祭祀団の意味に,また氏子を氏神から加護を受けるものの意味に用いている。氏子の意味は近世初期さらに転化して,郷村社会にふさわしい地域的祭祀団を示すことばとして氏子衆などが出てきた。江戸時代に入ると,氏子も氏神もほとんど地域的な意味で用いられ,公の文書にもたびたび登場してくるようになった。郷村制のもとに,全国の人民を統制する場合,氏子制はその一翼として大いに利用された。また,氏神と産生神(うぶすながみ)を同化する考え方が一般化し,それに伴い氏子を産子と呼ぶ傾向も出てきた。『徳川禁令法』によると,幕府は民衆の離村移住を統制するためにこの産子の原理を用いて出生地の神社に氏子身分を固定しようとした。藩によってはこの氏子区域のことを氏下と呼んだ例があり,いかにも行政的意味が強かった。明治維新後,政府は祭政一致の方針により,氏子制度を法制化した。すなわち政府は1870年(明治3)諸藩に対し,人民はすべて戸籍に編せられると同時に,産生神社に名簿を納め,神社から印証を受け所持すべしと令した。さらに翌1871年に太政官布告として「郷社定則」および「大小神社氏子調規則」を発布した政府は,これによって寺請制度に代わるキリシタン禁制と戸籍の整備をはかるとともに,国民教化の単位にした。しかし,1873年には異教禁制の方針が撤回され,1878年の戸籍法整備に従い,この郷社氏子制と氏子調が廃止され,さらに1884年までには大教院制度が解体され,氏子制度は法的意義を失い,本来の習俗的制度に立ち返った。もっとも氏子制の基礎としての村落の自主性はその後も保持され,その後の神社政策を支えるものとなった。しかし,第二次大戦後は国家的保護もなく,神道が法人化したために住民に対する一元的規制力は失われている。
![]()