●浮世絵 うきよえ
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江戸時代中期に町人階級のあいだに発生し,遊里と劇場を主な題材として,庶民に親しまれた独自の様式をもつ絵画(版画)をいう。浮世絵の文字が文献に現れるのは,井原西鶴の『好色一代男』(1682)が最初とされている。浮世絵の発生には近世初期に始まる風俗画の流行と,室町末から一般の文学書として奈良絵本といわれ普及した版本の発達が密接な影響をもっている。版本の挿絵に活躍していた菱川師宣は,この二つの流れを融合し,遊里の男女風俗や,役者芝居絵を一枚摺りの版画として世に出した。従来版本の挿絵であった版画を,初めて鑑賞用の一枚絵として独立させたのである。浮世絵の形式には,初期の宮川長春や,懐月堂を名のる絵師など,肉筆を専門とする絵師もあったが,庶民芸術であり,量産性と廉価が評価されて,木版画が主流を占め,一般庶民の絵画として非常な発達をとげてゆく。菱川師宣によって創始された浮世絵は,万治年間,墨一色摺りによる「墨摺絵」(すみずりえ)であった。元禄年間以後になって,この墨摺絵の上に丹を筆で彩色する「丹絵」(たんえ)が現れ,初めて色彩をもつようになる。享保年間には,さらに奥村政信の考案で,丹の代わりに紅を用いる「紅絵」(べにえ)が登場する。また同時に墨の部分を強調するために墨に強い膠をまぜ,漆のような光沢を出す「漆絵」(うるしえ)も考案された。これらは輪郭線だけが版画で,色彩はすべて筆で彩色したものであったが,中国版画から影響を受けて,墨の主版に紅と緑の二色版を重ねて褶った「紅摺絵」(べにずりえ)ヘと発展する。ここに従来の筆彩版画から,絵師・彫師・褶師三者の協力で木版画が誕生するという浮世絵版画製作の組織が確立した。1765年(明和2),鈴木春信らの努力によって,多色褶りの技法が発見され,十数度摺りも可能になって,豊かな色彩の世界が生まれた。錦のように美しいので「錦絵」(にしきえ)と呼ばれ,柔らかな色調・描線によるロマン的な作風で,明和期の美人画は春信調一色となった。同時代の磯田湖竜斎・勝川春章,日本洋風画の創始者といえる司馬江漢まで,多大な影響を与えている。また出雲の巫子阿国によって創始された歌舞伎は,演劇として発達していたが,この絵看板・絵番付などに独自な様式を確立した鳥居清信がいる。劇場の特殊な仕事は以後鳥居家の専業となり,浮世絵界では珍しく家系・様式を世襲し現在に及んでいる。春信以後,ロマンチックな作風から現実味を加味した流麗でリアルな美人画が盛んになる。鳥居清長は,群像形式の美人画に明快な色彩で,のびのびした健康な女性像を描き出し,天明期の浮世絵を代表した。寛政期に入ると喜多川歌磨が美人大首絵や半身像を取り入れ,今まで表現しえなかった女性の美しさを,豊かに巧みに描き美人画の最高水準を示した。一方役者絵では東洲斎写楽が,個性あふれる極めて優れた作品を発表した。この天明・寛政期を頂点として,浮世絵は衰退期にむかう。江戸文化の退廃的な傾向を反映して,写実的・類型的・退廃的な画趣をおびてくる。幕府はたびたび浮世絵の取締りを行っているが,松平定信の寛政の改革・水野忠邦の天保の改革が,文化文政期,禁令にふれることのない風景画を盛んにした遠因となっている。歌川国芳・渓斎英泉らが幕末の時代感覚を鋭くとらえている。また葛飾北斎は旺盛な作家活動を展開し独自の高い芸術性を示し,安藤広重が日本的抒情を取り込んだ風景画を完成して末期の浮世絵界を支えた。浮世絵の色彩・描線・平面描写にみられる空間表現は,ヨーロッパの印象派・後期印象派に影響を与えた。明治期には小林清親が光とその反照をモチーフとして清新な表現を試みたが,新しい時代に対応する動きもなく,技術的にも衰退し次第に消滅していく。〔参考文献〕藤懸静也『浮世絵』1924,雄山閣
東京国立博物館監修『浮世絵全集』(全六巻)1956〜7,河出書房
高橋誠一郎『江戸の浮世絵師』1966,平凡社
菊地貞夫『原色日本の美術17浮世絵』1968,小学館
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