●ウェルズ
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イギリス(連合王国United KinGdom)の一部,グレートブリテン島西南部の丘陵や山地の多い半島部をいう。北はアイリッシュ海,南はセヴァーン河口およびブリストル湾にはさまれた半島部である。大部分が200m以上の海抜高度の丘陵地で,ブリテン島最高峰のスノードン山(1,085m)もウェルズ北西部にある。面積は2万平方km強でわが国の四国全体よりやや広い。四国と違ってウェルズは東方がイングランドと陸続きで格別何の隔たりもない。それでもこの地は,アングロ=サクソン人がこの島に渡ってきたとき,先住していたケルト系ブリトン人の国(土地)で,今日なおウェルズ語が生き残っているなど,民族的・文化的に独自の個性を有している。もちろんウェルズ人は,アイルランド人やスコットランド人に比べると,はるかに強く同化してはいるが,ブリトンの歴史と伝統は今日なおウェルズ国立博物館などによく保存されている。1979年3月には,ウェルズ独自の国民議会をもつべきかどうかを問う国民投票が行われたが,否と答えるウェルズ人が多かった。それだけ同化しているともいえるが,保守党や労働党とは別にウェルズ国民党が力をもっているなど,独自性を失ってはいない。【ウェルズの形成とその歴史】アングロ=サクソン侵入後,その支配と隷属を嫌って西部カンブリアの丘陵地帯に逃れて自立を保ったブリトン人たち,これが異邦人とか余所者とかいわれるウェルズ人の源流であるが,全面積のうち野草地や永久牧草地が6割を占め,耕地が2割というウェルズでは,牧畜を主体とした農業を営む人が多いためか,政治的には小部族的分立の傾向が強かった。このため,イングランド王国の形成と統一が進むとともに,しだいに強くその侵害を受け,1536年ヘンリ8世のときには完全にイングランドに統合され,イギリス法にもとづく自治制度・代議制度を受けいれた。しかしそれまでにウェルズ人は何度ともなくイングランド勢力の侵入に対して,反抗や反乱を企て,彼らの民族的伝統と独立維持につとめた。ウェルズ人の政治的結束の中心は,当初から北部のスノードニア山地を拠点としたグウィネッズ王国で,その首長たちが,8世紀後半にイングランドはマーシアの王オファが建設した「オファの防塁」(ウェルズとイングランドの境界線)を越えて東方に進出することも何回かあった。すでに「オファの防塁」建設前の7世紀に,ウェルズ民族の英雄とたたえられるグウィネッズ王カドワロンが活躍していたし,9世紀中ごろに出たロードリ王は,ヴァイキングを撃退するなどして強盛を誇った。11世紀にはまたグリフィズ王がやはり「オファの防塁」の東へ領土を伸ばしたし,13世紀初めに出たルーウェリン王もウェルズ全土をまとめた上イングランドの政治に干渉した。このような軍事的・政治的栄光は,何よりもウェルズ人の同族意識を発揚させ,宮廷を中心としたラテン文化の開花をも促進した。しかし,イングランド側からの攻勢も,時代が進むにつれて強硬で執拗なものとなっていった。とくに13世紀後半に出たイングランド王エドワード1世は,ウェルズに対する宗主権を主張して,1276年から4回にわたって遠征隊を派遣して攻略をほしいままにし,1284年にはついに全土を属領化してしまった。イングランドの皇太子が,プリンス=オブ=ウェルズの称号をもつのは,このときに始まる。その後もしばしばウェルズ人の反抗が試みられたが,部族首長らはおおむね従順となり,イングランドで絶対王政が確立すると先述のように政治的には1536年これに統合された。あたかもイギリス宗教改革のころでウェルズもこれに同調したが,18世紀にメソディスト運動が盛んになるとウェルズでもその支持者が増え,1811年には英国国教会から分離した。政治的統合のもとにあってもウェルズ古来の文学・音楽の復興と研究は今なお盛んで,その文化と伝統は,生きつづけている。
〔参考文献〕青山吉信・今井宏編『概説イギリス史』1982,有斐閣
大野真弓編『イギリス史』(新版)1966,山川出版社