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●ヴェルサイユ体制 ヴェルサイユたいせい

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 ヴェルサイユ条約を第一次世界大戦終結の代表的条約とみなして呼ばれる名称で,諸条約が規定した第一次世界大戦後の国際体制をいう。広くは両大戦間をさすが,世界恐慌によって,各国が国際主義よりも自国中心主義に走ったので,1930年代初めをもって,事実上は崩壊した。最後のヨーロッパ中心時代といえる。

【ヴェルサイユ条約】第一次世界大戦は,1919年6月のドイツとのヴェルサイユ条約,1919年9月のオーストリアとのサノ=ジェルマン条約,1919年11月のブルガリアとのヌイイ(ニュイイ)条約,1920年6月のハンガリーとのトリアノン条約,1920年8月のトルコとのセーヴル条約の締結で,一応の戦後処理を終えた。これら条約の基本には,アメリカ大統領ウィルソンが,1918年1月,議会に示した教書で明らかにした十四カ条があった。十四カ条は植民地解放などの意味を含めた民族自決の原則,勝利なき平和のための無合併・無賠償,帝国主義的な旧外交に対する新外交を実現するための秘密外交の排除・海洋の自由・関税壁の撒廃,絶対化されがちな国家意思をコントロールするための超国家的な国際組織の確立などを説いた。しかし,戦争に勝つために,大戦中に,イギリス・フランス・イタリア・日本などは秘密裡に,ドイツ植民地・オーストリア=ハンガリー・トルコ・中国・中=近東についての協定を成立させていた。そのため,戦後処理に秘密外交がもちこまれた上に,戦勝国の立場をとったので,民族自決は敗戦国であるオーストリア=ハンガリー・トルコを解体させて民族国家をつくったにとどまり,アフリカ・アジアの植民地は放置された。戦争直後の憎悪感は,償金は不用としても賠償金は必要とする論理をとらせ,戦争責任を敗戦国におしつけ,軍備を一方的に制限して,ドイツには1,320億マルクという天文学的数字の賠償金を強要した。超国家的な国際連盟はできたが,大戦後の指導国であり,これを主張したアメリカが加入せず,ソ連・ドイツなども初めは加盟を認められず大国の利己主義的な運営になった。これらの点から,ヴェルサイユ条約を出発点とするヴェルサイユ体制は矛盾が多く,ウィルソンの理念からはかけ離れたものとしてスタートしなければならなかった。

【ロシア革命】ロシアでは1917年三月革命,ついで十一月革命がおこり,ボルシェヴィキ政権が誕生した。第一次世界大戦後の1919年3月に,ベラ=クンによるソヴィエト政権がハンガリーに成立し,1919年1月にはスパルタクス団の蜂起がドイツでみられ,4月にはミュンヘンにソヴィエト政権がみられた。これらを背景に,1919年3月には第3インターナショナル(コミンテルン)が組織されたが,世界の社会主義化を1,2年のうちと判断したコミンテルンは,超国家的組織という点ではウィルソンの理念に共通するものをもちながら,資本主義と現状の維持を目的とするヴェルサイユ体制とは敵対するものであった。その上,国際的に孤立したソ連は,同じく孤立しているドイツとともに,ヴェルサイユ体制で無視できない存在であった。

【対立の時代】賠償問題は最初から大きな問題であった。支払い能力をもたないドイツは,1921年夏に10億マルクを支払ったが,それは利子にもあたらなかったばかりでなく,マルクの大暴落をおこした。ただし,のちにしばしば主張されたような,賠償金の負担のみがドイツ経済を破滅させたのではなく,大戦中の無理な財政が主原因であった。マルクは1923年末までに1兆分の1以下に価値を下落させた。経済立て直しの方法として,レンテンマルクが発行されたとき,1レンテンマルクは1兆旧マルクと交換された。アルザス・ロレーヌを得て,鉄鉱をもったフランスは,ザールやルール地方の石炭にも目をつけ,賠償不履行を口実に,ベルギーをさそって,1923年1月にルール占領を強行した。ドイツはフランスへの非協力である,いわゆる消極的抵抗を行って対抗し,両国のあいだには緊張がみられた。革命によってできたソ連は列国から孤立させられたが,戦後の不況にあえぐ列国にとって,よき市場ともみなされた。イギリスが主唱して,1922年4月からジェノヴァで開かれた世界経済会議では,ソ連代表も招かれた。ソ連にしても,新経済政策(ネップ)によって,外国資本を必要としていた。ソ連は旧ロシア帝国の債務を引き継ぐ意思のないことを主張し,フランスなどは,ソ連がドイツとのあいだですでに,ブレスト=リトフスク条約(1918)を結んでいるにもかかわらず,ドイツから賠償金を支払わせ,それをもって旧帝国の債務を支払わせようと考えた。これは結局,ソ連が旧債務を認める代わりに,32億金ルーブルの借用を申し出て,借用は実現されずに終わったが,世界経済会議の最中,ジェノヴァの近くのラパロで,ソ連とドイツのあいだでラパロ条約を結び,賠償金の相互放棄と相互援助を約した。孤立した2国接近で,両国はさらに文化協定にもすすみ,誕生したロシアの赤軍を,ドイツ将校が指導するところまですすんだ。この情勢にイギリス・イタリアは1924年1月,ソ連を承認した。不況に苦しむ各国は1921年,海軍の主力艦に関するワシントン条約を成立させて,軍備縮小への第一歩を踏み出した。この会議はロンドンで開かれるはずであったが,アメリカ大統領にハーディングが就任したことからワシントンで開催された。そこでは,イギリスに対してアメリカが対等の地位を得,日本の主張は抑えられるなど,列強の利害が対立した。ただ,太平洋の現状維持に関する四カ国条約や中国の主権と領土保持に関する九カ国条約が成立したのは,集団安全保障体制の出発という見地からみのがせない。

【相対的安定期】各国の経済が再建され,戦時中の憎悪感がうすれてくると,国際関係の空気はしだいに変化してきた。これには1923年8月にドイツ首相となり,以後も歴代内閣で外相をつとめたシュトレーゼマンの存在が大きい。彼はソ連との結びつきを強め,西欧諸国を牽制しながら,西欧協調政策をうちだした。ルールでの消極的抵抗を中止し,インフレを克服した。これらのことから,外国,とくにアメリカ資金がドイツに流入して,ドイツ復興を促した。この雰囲気のなかで,賠償金の支払い方法に関するドーズ案が1924年5月に成立し,1929年にはヤング案ができて,賠償問題は事実上,解消していった。軍縮会議は小艦艇多数の保有を主張したイギリス案をアメリカが認めなかったので,ジュネーヴ会議には失敗したが,1930年には補助艦艇に関するロンドン条約が成立した。とりわけ,1925年10月に認められたロカルノ条約は,ドイツとフランス・ベルギーの国境の現状維持と不可侵を集団安全保障で認め,ロカルノ精神としてもてはやされた。また,1928年8月にはケロッグ=ブリアン(不戦)条約が多くの国の賛同を得て成立した。ルール占領も撤回され,協調の空気が支配的になった。

【体制の崩壊】経済復興は大戦中に消耗した機械を新しい機械にとりかえた工業と,戦争中に開発された技術を変形させて投入した低開発地域での農業や鉱業の増産を基盤にしてなされた。後者についていえば,戦車用キャタピラが農業用に,毒ガスは化学肥料に転用されたのが例である。このため,相対的安定がもたらされた同じ時期に,農産物は大幅に伸びながら,新機械は比較的人手を要しないところから雇用が伸びず,世界的に需要と供給のバランスがくるってきた。1929年後半,アメリカの農業に始まる世界恐慌はこのためにおこった。アメリカ資金の導入で立ち直っていたドイツを初めとする敗戦国の痛手は大きく,世界的な大不況のなかで,ドイツの失業者は600万人に達し,ワイマール共和国は終わって,ナチスが政権をとった。イギリスを初め,アメリカ・フランスなどは,それぞれポンド=ブロックフラン=ブロックドル=ブロックなどの閉鎖的なブロック経済を採用し,自国主義のなかにこもることになった。国際協調主義は一転して,国益優先に変わり,“持てる国”と“持たざる国”の対立になった。第三帝国の建設を叫ぶナチスの台頭はヴェルサイユ体制にとどめをさした。

〔参考文献〕ノイマン,曽村保信訳『現代史』