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●ヴェルサイユ宮殿 ヴェルサイユきゅうでん

アジア 中華人民共和国 AD 

 パリの西南西約18km,イヴリーヌ県の県庁所在地ヴェルサイユにある大宮殿。バロック様式にもとづく建築・内部装飾・庭園をもって,世界的な観光の名所となっている。

【造営の歴史】この宮殿の起源は,狩猟好きのルイ13世が1624年にルメルシェに命じて狩猟の際の仮宿泊所を設営させたことに始まる。手狭さを理由に早くも32年からル=ロワの監督の下に改築が開始されたが,今日あるヴェルサイユ宮殿の骨格はルイ14世治下に築かれた。のちに太陽王となるルイ14世にとっても満足すべき城館がながった(パリのパレ=ロワイヤルテュイルリ宮殿は民衆に対してあまりにも無防備であった)こともあって,国王自身お気に入りのこの地での大宮殿造営を決意したのであった。国王は1664年にコルベールを建築総監に登用し,建築家ル=ヴォーに命じて大改築・拡張工事に着手させた(1668)。ル=ヴォーの死後はドルベー,さらにアルドゥワン=マンサールが1678年以後改造の任にあたり,1682年に南の,1689年には北の翼が完成して,現在の大宮殿の形式が整った。内部装飾は,1671年以後,国王付き画家ル=ブランの指揮の下で,またコルベールの死(1683)ののちは,ル=ヴォー建築総監の任命したミニャールの指揮の下で進められた。色彩豊かな大理石の床・壁,天井画,ゴブラン織りのタピスリーなどによる装飾芸術はバロック様式の代表例として名高い。庭園は,ル=ノートルが1665年に作製した設計図を基礎とする,バロック様式をとる代表的なフランス式庭園となっている。セーヌ河からの揚水による運河(グラン=キャナル),噴水をともなう多数の池が配置されており,また,それらの周囲や歩道脇に据えられたギリシア=ローマ神話の登場人物の像などは,17世紀末彫刻の野外美術館の観を呈している。庭園には,1687年にアルドゥワン=マンサールによって建てられたイタリア様式の大トアノン館,そして1761年から1768年の間にガブリエルが建てた小トリアノン館がある。ルイ16世の王妃マリ=アントワネットの愛した小トリアノンの周囲は,人工の美ではなく自然らしさを活かしてイギリス式庭園となっており,水車小屋,藁ぶき家などと配置されている。

【歴史の舞台としてのヴェルサイユ宮殿】ルイ14世は大拡張以前にド=ラ=ヴァリエール嬢との愛の隠れ家としてヴェルサイユ宮殿を利用したことがあるが,完成後も王妃マリア=テレサ以外のモンテスパン侯夫人・スキャロン未亡人(マントノン侯夫人と称す)との間の愛の物語がこの宮殿を舞台に繰り広げられた。しかし,大改修を決意して以後,また1682年にルーヴルからヴェルサイユに王宮を移して以後,この宮殿は政治・文化の中心として,国王の権勢の発揮・誇示される場となる。1664年5月,1668年7月,1674年7月の3度にわたる大饗宴では,モリエールの『タルテュフ』『気で病む男』,リュリーのオペラ『アルセスト』,さらに1674年8月にはラシーヌの『イフィジェニー』などが上演された。宮廷社交文化とそれを媒介とした国王支配の最盛時であった。ルイ15世(1715年即位)は一時パリに戻るが,1722年にはヴェルサイユを再び王宮とし,小規模な改修を行う。ルイ16世(1774年即位)もマリ=アントワネットとの生活をここで営むが,彼らには悲劇が待ちうけていた。1789年5月,三部会がヴェルサイユ宮殿に召集され,〈国民議会〉から〈憲法制定議会〉を経てフランス革命という大激動期を迎えるにいたる。10月には食糧不足に悩むパリの民衆が宮殿に乱入し,国王・王妃ら一族をパリに連れ戻した。彼らは二度と戻ることはなかった(1793年ギロチンで処刑)。その後,ナポレオン1世もヴェルサイユ宮殿の一部改修を行う。ルイ=フィリップは宮殿の保存に努め,これを〈フランス歴史博物館〉とした(1837)。その後は歴史の舞台としての役割は薄らいでいたが,1871年1月,普仏戦争に勝利したプロイセン王ヴィルヘルム1世が,〈鏡の間〉においてドイツ皇帝への即位式を挙行,同年3月,パリ=コミューンから逃れた国民議会がヴェルサイユに身を落ち着けた。1879年以後,議会はパリに戻るが,大統領の選出はヴェルサイユ宮殿で行うという慣行が,第3共和政・第4共和政を通じて持続する。1919年6月28日にはここで〈ヴェルサイユ条約〉が調印された。1957年以降,諸国からの国賓を迎える場所として利用され,近くは1982年6月,ミッテラン仏大統領の提唱による〈ヴェルサイユ=サミット〉が開催された。

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