●ヴェネツィア
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現在,イタリア共和国の都市でヴェネト州の州都,人口約11万人。干潟に建設され海上に浮かぶこの都市は,その独特の魅力のおかげで一大観光都市となったが,伝統的なガラス・絹工業でも有名。【歴史】侵入してきた蛮族から避難するため近隣都市から干潟に移住し,集落を形成した人々は,政治的連合により独立性を高めた(7世紀)。こうして形成されたヴェネツィアは,地理的および政治的な(ビザンティン帝国に属するがフランク王国との貿易権をもつ)位置により,東西貿易の中心として発展しはじめた(9世紀)。衰退したビザンティン帝国のためアドリア海の防衛を引き受けたヴェネツィアは,同帝国内での広範な貿易特権を得ていたが,さらに十字軍が聖地に進出すると,援助と引き換えに同地での貿易特権を得た(11世紀)。第4回十字軍の遠征において,ヴェネツィアは十字軍とともにビザンティン帝国を征服し,その領土を分割した。こうしてヴェネツィアは,東地中海における一大海上植民地帝国となったのである(13世紀)。同植民地帝国の商業的・軍事的拠点は直接に支配し,残余部分は現地支配者と封主-封臣関係を結んで間接に支配したが,支配機構の発展とともに直接支配が拡大した。植民地が開発され,砂糖・綿花などの特産物生産が軌道にのると,それは経済的にも重要となり,貿易基盤の一部となった。ヴェネツィアの貿易の拡大とともに,競争相手ジェノヴァとの対立関係が激化し,100年以上にわたる断続的な死闘が展開されたが,ヴェネツィアが最終的な優勢を得た(14世紀)。14世紀以後,重要商品の海上輸送は,国家規制下の船団航海などにより定期化し,地中侮はもとより北海に対してもなされた。さて,こうした海上発展から利益を得た有力者層がヴェネツィアの政権を獲得した。従来,ヴェネツィアの最高機関は全人民集会であり,そこで選出された統領が強大な権限を有したが,台頭してきた有力者層の機関として大評議会が設置されると,この機関が権力を吸収していった。13世紀末〜14世紀初め,大評議会は当時の新興勢力を包摂して基盤を拡大・強化し,権力の独占に成功したが,同時に会員資格を世襲化したので,閉鎖的な貴族身分が誕生した。以後,新たに富裕化した平民は原則としてその会員にはなれず,権力への参加を拒否されたが,一定の条件を充足すれば,海上貿易参加権などの貴族の経済的・社会的特権の一部を与えられ,残余の平民とは異なる準貴族身分となった。貴族・準貴族・平民の3身分より構成された「ヴェネツィア共和国」では,3者の関係が安定していたので,政治的な安定がみられた。さて,従来海上帝国の経営に努力を傾注していたヴェネツィアは,方針を転換し,イタリア本土における領域国家の建設にも精力をさきはじめた(15世紀)。本土ではすでに少数の領域国家による覇権争奪の時代となっていたが,その脅威に対抗して内陸貿易路と食糧・原料基地とを確保する必要から,イタリア北部を征服し,その経営に乗り出したのである。その急激な膨張がイタリア諸国のみならず西欧諸国をも警戒させ,各国はカンブレー同盟を結んでヴェネツィアを敗北させたので,それ以上の膨張は不可能となった(16世紀)。一方東地中海では,15世紀後半以後,オスマン=トルコの海上進出によりヴェネツィアは領土をしだいに喪失した。「インド航路の発見」にもかかわらず,16世紀にはヴェネツィアのレヴァント貿易はまだ繁栄を維持したが,17世紀にオランダがその航路を支配するに及んで衰退した。以後ヴェネツィァは局地的な貿易の中心地にすぎなくなった。しかし,16世紀にヴェネツィアの文化は最盛期を迎えていたが,この間に発展した印刷業や(ヴェネツィア共和国の中心大学たる)パドヴァ大学を通じて,以後イタリアおよび西欧の文化を東地中海各地に伝える上で,ヴェネツィアは大きな役割を果たしたのである。1797年,ヴェネツィア共和国はナポレオンの占領により崩壊し,以後いくたの曲折をへて,1866年,統一イタリア王国に編入された。
〔参考文献〕マクニール著,清水廣一郎訳『ヴェネツィア』1979,岩波書店
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