●ウェセックス王国 ウェセックスおうこく
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アングロ=サクソン7王国時代の王国の一つ。【建国】495年ごろセルディック(519〜534)とその子キンリック(534〜560)が南イギリスのサザンプトン周辺に上陵,ブリトン人を追って北上し,ウォッシュ湾からテームズ川上流地域に定殖していたサクソン人を支配して,519年ウェセックス王国を建設した。その後ハンプシアに勢力をひろげ530年にはワイト島を支配した。キンリック王ののち,その子キーウリン王(560〜593)のとき,ケントのエセルベルフト王の攻撃をウィンブルドン周辺でくいとめ,パス周辺でブリトン人を破ってセヴァーン川附近までの支配に成功し,南イギリスの覇王となった。
【混乱と統一】しかしその後のウェセックスは党派的対立に悩んだ。キネギルス王(611〜643)のとき,628年にマーシアのペンダ王に敗れて,フイッセ地方の支配を失ったが,王は,ノーサンブリアのオスワルド王の影響下に635年ビリーヌスより洗礼をうけ,ビリーヌスにドーチェスター司教区を設置させ,王国のキリスト教化を始めた。その子ケンウァルフ王(643〜672)はマーシアの進出に苦しむが,国内の党派的対立の統合をはかり,南進してドーチェスター司教区を廃止し,ウィンチェスター司教区をを置き,ウィンチェスターを拠点とする政教一致政策を進めた。その後もウェセックスは,西進政策をとるケントウィネ王(676〜685)や東進政策をとるケドワラ王(685〜688)と政策が動揺したが,ケドワラ王ののち,イネ王(688〜726)が出た。彼は国内の党派的対立を統一し,西南イギリスに植民してシャーボーン司教区を創設し,マーシアの功撃によく耐えてサセックス支配を確立した。イネ王法典は,キリスト教国家として王政がよく行われていたことを示している。ところが王は726年洗礼をうけるためローマに旅立ち,王国は再び混乱に陥った。その間,マーシアの攻撃をうけて,国内にも政変が続いたが,その政変の中で王位を得たベオルフトリック王(786〜802)は,マーシアのオファ王の娘をめとってその援助を得て統治し,政敵で,イネ王後裔のエグバートの追放に成功した。追放されたエグバートはフランクのシャルルマーニュの宮廷に亡命し,フランクの高度な国家組織とキリスト教文化を見聞し,ベオルフトリック王の死後,ウェセックス王(802〜839)となるや,亡命中の見聞を生かして王国を経営し,825年マーシアをエレンダンに破り,829年ノーサンブリアをドーアに破って,ケントなどをもさらに支配,ウェセックス王国によるイングランド統一の下地をつくった。
【デーン人との闘争】しかしこのころからデーン人の侵入が激しくなってきた。エグバート王以後の諸王はデーン人の侵入に苦しむが,アルフレッド王(871〜899)が出て,イングランド全土の期待を一身に集めて,自らキリスト教戦士の自覚をもって異教徒デーン人と戦った。王は878年チップナムで敗れたが,その後体制を立て直して,886年ロンドンを奪回し,その勢いでデーン人王グスラムとのあいだに協定を結び,デーン人地域を確定して,その地域内のサクソン人の生命財産を保護するのに成功した。王はまた陸海軍の組織を強化して中央・地方の行政組織を整備した。アルフレッド王法典はキリスト教国家の秩序確立をめざしたものである。また890年ごろには『早期サクソン年代記』が完成し,アングロ=サクソン文芸も奨励された。この時代は,デーン人侵入の危機に臨んで,ウェセックスを中心に,アングロ・サクソン諸国家が団結して民族意識を高揚させた時代であった。その後,エドワード長兄王(890〜924)が各地に城砦都市を建設して,国防体制を一層強化したが,その子エセルスタン王(924〜939)は937年デーン人,北欧人の連合軍をブルナンブルフの激戦で破って,イングランドの一体感を盛り上げ,929年ごろから初めてイングランド王と称した。こうしてウェセックスによるイングランド統一は,エセルスタン王のときに,軍事的に確立されたが,その後のエドモンド王(939〜946)のとき,州・郡制を中心に地方行政組織が充実してイングランドの内政も確立し,ウェセックスによるイングランド統一が進められた。
〔参考文献〕トレヴェリアン,大野真弓監訳『イギリス史』1,1975,みすず書房