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●ウェストファリア条約 ウェストファリアじょうやく

ヨーロッパ 英国 AD1648 前期スチュアート朝

 三十年戦争を終結させた条約。スペイン・オランダ間の戦争に関する条約は1648年1月30日に,フランス・スウェーデン・ドイツのプロテスタント諸侯および帝国都市と神聖ローマ皇帝,ドイツのカトリック諸侯とのあいだの戦争に関する条約は同年10月24日に調印された。講和の打診は1640年から始められ,交渉は1643〜44年ごろから具体化しだした。会議の場所としてはドイツのウェストファリア(ヴェストファーレン)のミュンスターオスナブリュックの2都市が選ばれ,カトリックの使節は前者に,プロテスタントの使節は後者に集まってそれぞれ条件を提示し,その上で両派間の交渉がなされた。

 ローマ教皇・ヴェネツィアのような戦争に関係のない国の使節も加わり,参加国は66カ国,参加人数は148人(うち3分の2余りはドイツ人)で,それまでのヨーロッパ史上最大のヨーロッパ中心の国際会議であった。

【領土関係の取り決め】この条約によってドイツの犠牲において領土を拡大したのはフランスとスウェーデンである。フランスはメッツ・トウール・ヴェルダンの3司教領,オーストリアがエルザスにもっていた領地・権益,ブライザハ市を割譲されたほか,フィリップスブルク市におげる軍隊駐屯権を認められ,将来ライン左岸地域一帯に進出する基礎を築くことができた。スウェーデンはポメルン西部(フォアポメルン)・ブレーメン大司教領(ブレーメン市を除く)・フェールデン司教領ヴィスマールを獲得し,ヴェーゼル・エルベ・オーデル3河口地域を押えて,バルト海制覇のための体制を固めることができたほか,500万ターレルの賠償金を受けとった。ドイツの諸侯のなかでは,ブランデンブルクがポメルン東部(ヒンターポメルン)・カミン・ハルバーシュタット・ミンデンの3司教領を得たほか,将来におけるマグデブルク大司教領の継承権を保証されて,最も大きく領土を拡大することができた。

 そのほかバイエルンを戦争中に得た上プファルツ(オーバープファルツ)の領有と選帝侯位を認められ,プファルツ選帝侯にはライン流域のプファルツ領が返還されるとともに,バイエルン公に移譲された選帝侯位に代わって,新設されたばかりの選帝侯位が与えられた。

 なお,オランダとスイスの神聖ローマ帝国からの分離と独立が正式に承認されている。

【ドイツの国家体制】ドイツの諸侯と帝国都市は〈皇帝と帝国を敵としないかぎり〉彼ら相互のあいだで,あるいは外国とのあいだで同盟を結ぶ権利を認められ,皇帝は戦争・講和に関する事項については帝国議会の決定に従わねばならないとされた。戦争中皇帝は選帝侯や諸侯にはかることなくプファルツ選帝侯の追放やその選帝侯位のバイエルン公への移譲を決めるなど,皇帝の権限を拡張していたが,皇帝権は厳しく制限されることになったのである。宗教領に関しては,1629年の「回復勅令」は1552年を基準年として,それ以後プロテスタントによって没収された宗教領の返還を要求していたが,この条約では1624年が基準年とされた。またカルヴァン派はカトリック・ルター派と並んで公認され,その点でもアウグスブルク宗教和議は変更を蒙った。これらの宗派の同権は帝国体制の上にも反映され,選帝侯会議諸侯会議の委員会は同数のカトリックとプロテスタントの委員によって構成されること,帝国最高法院もカトリック26人,プロテスタント24人によって構成されることが決められて,少数派のプロテスタントにもカトリックと対等の権利が保障された。このウェストファリア条約によって定められたドイツの国家体制は1806年まで持続するのである。