●ウィーン暴動 ウィーンぼうどう
アジア インド AD1848
1848年3月からおこったオーストリア三月革命中の首都ウィーンにおける騒乱をいう。【革命前】三月革命前を三月前期と呼ぶが,オーストリアの三月前期はウィーン体制のもとにあり,メッテルニヒが指導していた。ウィーン体制は西ヨーロッパを代表して参加していたイギリスやフランスが五国同盟から抜けると,事実上は中・東欧体制となり,ブルジョワ的要素を失って,君主的保守主義を原理とする反動体制になっていった。この体制を守るため,メッテルニヒはラテン=アメリカやギリシアの独立に干渉しようとし,また,ブルシェンシャフト運動を弾圧するために,カールスバートの決議を行った。1846年ごろからの農業不作は物価を上昇させ,それが商業都市であるウィーンの経済を不活発にして,失業者が増加していった。いわば,ウィーン体制への反発と資本主義発達に遅れをとった結果が,ウィーンを暗い空気につつまれたものとし,市民は自由の獲得と生活苦からの脱出を望み,メッテルニヒをその対象にしていた。
【3月13日】1848年2月24日,パリで二月革命がおこったとの報がとどくと,ドイツではハイデルベルク集会がもたれ,フランクフルトに準備議会が召集されるなどの動きがみられたが,ウィーンでも,曇天でおだやかな気温の日であった3月13日朝に,シュテファン聖堂広場をはじめ,市内のいくつかの広場で,学生の集会がもたれ,デモ行進に移った。3月13日は月曜日であったので,前日の日曜日に手配が進められたという。スローガンは「市民に自由を」といったものが多いが,「メッテルニヒから皇帝(フェルディナント1世)を自由に」がかかげられているところからわかるように,市民の眼には,すべての原因がメッテルニヒにあるように映じていた。メッテルニヒは暴動によって失脚したというより,宮廷内の反メッテルニヒ勢力やそれと結んだ政敵コロウラートらの強要にあったために,首相を辞任し,スイスへ,そしてイギリスに亡命した。
【5月26日】メッテルニヒ亡命後,ピラースドルフ・カール=ルートヴィヒやコロウラートを中心にした政府が成立したが,宮廷や貴族を中心にした政治であることには変わりがなかった。また,オーストリアを構成する諸民族のあいだでも,利害がからんで統一された力とはなりにくかった。政府は,労働者や小市民を加えた国民防衛軍を5月14日に解散させようとし,5月26日には学生軍に解散を命じたが失敗し,皇帝はじめ,政府はウィーンを捨てて,西端のインスブルックにのがれた。この動きを背景に,6月に入ると,コッシュートが指導したハンガリーやボヘミア・プラハ・北イタリアなどで,民族独立あるいは自治の拡大を求める集会や暴動がおこってくるが,ここでも,たとえば,ハンガリー独立革命には,異民族で,ハンガリー人の小作にされることの多かったクロアティア軍をむけるなど,民族と民族を戦わせる方法をとって危機を乗り切った。ウィーン市民は革命に期待していたものが得られず,しだいに無気力になった。反革命は軍部の長老ヴィンディッシュ=グレーツやラデッキーの活躍により組織されていった。
【10月反革命】ハンガリーを支援しようとした市民・学生が10月6日に暴動をおこすと,ウィーンに戻っていた皇帝たちは,再びオルミュッツに逃れた。市民の要求は,軍隊のウィーンからの撒退・議会の設立・僧院の解散・収入税の導入など,多岐にわたったが,革命を支持するものは少数派になっていた。ヴィンディッシュ=グレーツは10月下旬からウィーンの革命軍に対して攻撃を開始し,10月31日,これを鎮圧した。ウィーンでの革命の終了はオーストリア諸民族の革命を失敗させる転機となり,さらに,プロイセンをはじめ,革命に手を焼いていた全ドイツに反革命を成功させ,三月革命を失敗させる引き金となった。
〔参考文献〕R=シュターデルマン,大内宏一訳『1848年ドイツ革命史』河野健二『現代史の幕あけ』