●ウィーン包囲 ウィーンほうい
アジア インド AD
トルコの西方への進出に伴って,ドナウ川に沿い,かつ,神聖ローマ帝国の首都的な役割りをもつウィーンが攻撃目標となって,しばしば包囲されたことをいう。主要なものとして,次の2回が数えられる。【第1次:1529年】1520年から66年にいたるスレイマン1世の時代は,オスマントルコの全盛期であった。ヨーロッパでは,1517年にルターが95カ条を発表して,宗教改革の時代に入り,1521年のウォルムス国会でルターを異端と決定し,ルターはヴァルトブルク城にかくまわれた。1516年からスペイン王位についていたカルロス1世は,1519年に神聖ローマ皇帝となり,カール5世と称した。カール5世はルター派を抑えるとともに,フランスのフランソワ1世とも争った。トルコは1521年にベオグラードを,1522年にロードス島を攻略し,北上してハンガリー,ボヘミアをうかがった。この情勢に,カール5世は1526年のシュパイァー国会で,ドイツ新教派諸侯にルター派を黙認することを約して妥協し,1527年から始まる対フランス,1526年からの対トルコ戦争に備えた。トルコ軍は1526年8月29〜30日のモハチの戦いでハンガリーを破り,1529年9月からウィーンを包囲した。しかし,ウィーン守備軍の健闘と悪天候のため,トルコ軍はウィーン攻略を断念し,10月16日には囲みを解いて引き上げた。オーストリアはこの年10月3日,カンブレの和約(両貴婦人の和)を結び,フランソワは賠償金200万クローンを支払い,イタリアへの野心を断念することを約した。危機が去ったカールは,同年のシュバイアー国会で,前シュパイアー国会での約束を取り消したので,新教諸侯は一致して抗議(プロテスト)し,翌年シュマルカルデン同盟を締結した。フランソワはトルコと接近して,ドイツに対抗した。
【第2次:1683年】スレイマン1世後のトルコは衰退期に入ったが,1657〜1702年のあいだはキウプリュリュ家出身の宰相が改革につとめ,改善の実が上がった。メフメット4世(在位1648〜87)のとき,キウプリュリュ家につながる野心家のカラ=ムスタファが実権をにぎり,ロシアと戦うとともに,1682年から,オーストリアと開戦し,1683年7月17日より9月12日にいたるあいだ,カラ=ムスタファの率いるトルコ軍はウィーンを包囲し,プラターの森までおし寄せた。シュターレムベルクのリュディガーが指揮するウィーン防衛軍はトルコ軍の攻撃によく耐え,同じくトルコに攻撃されていたポーランドのヤン=ソビエスキとロートリンゲン侯カールの指揮したドイツ−ポーランド連合軍がウィーンの救援にむかったので,トルコ軍は攻囲を解いた。こののち,1684年にはオーストリア・ポーランド・ベネチアが対トルコ神聖同盟を結成し,サヴォイ公オイゲンらの活躍で,ペスト市を占領し,1699年にはカルロヴィッツ条約でハンガリーの大部分とトランシルヴァニアをオーストリア領とし,1718年のパッサロヴィッツ条約では,セルビア・トラキアまで領土を拡大することができた。第2次ウィーン包囲は退潮期に入っていたオスマン=トルコの最後の攻撃で,以後トルコは,南西ヨーロッパにとじ込められることになった。スルタン=カリフ制をとっている大帝国トルコの圧力に対抗するためにこそ,キリスト教のこの世の保護者で,ヨーロッパに号令する立場にある神聖ローマ帝国皇帝の存在意味があったのである。