●ウィーン体制 ウィーンたいせい
ヨーロッパ フランス共和国 AD1609 フランス王国
1815年に終ったウィーン会議の結果として成立した国際体制をさし,保守的な雰囲気をもっていた。ウィーン体制の消滅をいつと考えるかについては,フランスの七月革命(1830)のころとしたり,中心人物であるメッテルニヒが失脚する1848年の三月革命としたりしている。【ウィーン会議】1814年に始まったウィーン会議は,ウィーン市民から〈会議はおどる,されど進まず〉とささやかれた。これには複雑な背景があった。フランス革命が始まってから約4半世紀,国王をさえ処刑した革命のあとに,ナポレオンという怪物が現れて,ヨーロッパ全土を混乱させた。その怪物をようやく捕りおさえて,エルバ島に流した。国王や政府首脳にすれば,枕を高くして寝ることのできる日がきた。遠足にでもいくようなつもりで,揃ってウィーンにのりこんでくる。これも会議をおどる会議にさせる一要素である。反面,ヨーロッパの再建という会議の目的のなかには,荒らされた国境線を引き直すことも含まれている。各国の利害が衝突することは明らかで,いきなり本会議を開けば会議は分裂してしまう。これも舞踏会・観劇会・夕食会などを多くさせて,事前の相談を必要とさせる要素となった。いずれにしても,革命やナポレオンの恐怖を十分に味わったのであるから,その反動として,保守的空気が強いし,ナポレオンを倒すのに功あった大国を中心に,勢力均衡の保てるヨーロッパを再建しようとしたのも当然であった。フランスを代表したタレーランが,フランスの立場をよくするために正統主義の原則をもちだすと,保守的安定を求めていた各国はそれに賛同した。それゆえに,ナポレオンがエルバ島を脱出すると,ザクセン問題やポーランド問題でもめていた諸国は,たちまち一致して結束し,再びナポレオンを破って,セント=ヘレナに流した。革命・自由主義・民族主義は混乱の原因とされたのである。
【体制の維持】ウィーン会議で回復したヨーロッパを維持していくために,ロシア皇帝アレクサンドル1世(在位1801〜25)が提唱したのを,無意味なものとして退けたイギリス,キリスト教君主との同盟を拒否したトルコ,プロテスタントとの結合を避けた教皇を除いて,ほとんどの国が形式的には参加したのが神聖同盟である。神聖同盟はしかしながら,君主がキリスト教の名において,兄弟のごとく結ばれることを約したものにすぎず,その実効性は乏しい。これに反して,現実的にヨーロッパの維持にあたったのが,1815年11月にできた四国同盟である。ヨーロッパの平和を維持するとは,当面,警戒をフランスに向けることにほかならないので,イギリス・プロイセン・オーストリア・ロシアの参加4国はフランスに関する情報交換を中心に,定期的に会合を重ね,ウェリントン(1769〜1852)を司令官とし,4国がそれぞれの地区を受けもった占領軍をおいて監視した。四国同盟は1818年,エクス=ラ=シャペル(アーヘン)の定期会議において,フランスが第2次パリ条約で定めたことを十分に履行し,ナポレオン派が復活してくる恐れもなくなったとして,フランスを加えて五国同盟となり,フランス占領も中止している。フランスに対する警戒を主任務としていた四国同盟が,フランスを加盟させて五国同盟となり,革命的動向にあたるというのは理に合わないように思えるが,ウィーン会議が定めて,ウィーン体制維持の原則になっているものに,大国の協調による勢力均衡がある。この原則からいえば,フランスは欠くことのできない大国であり,フランスの抜けたヨーロッパは考えられなかったのである。
【中・東欧体制】フランスを加盟させたことで,ウィーン体制は全ヨーロッパ体制となりえた。五国同盟加盟大国についていえば,イギリスとフランスは西ヨーロッパの,プロイセンとオーストリアは中央ヨーロッパの,ロシアは東ヨーロッパの指導国で,その意味でのバランスもとれていた。けれども,イギリスやフランスは資本主義が発達し,ブルジョワジーが発言権をもつ民主主義の国であるのに対し,他は絶対主義的君主主義国家で,ロシアは農奴制の段階にある。その間の一致は無理なのであり,相互の矛盾が現れてきた。その最大のものがスペイン問題である。スペインでは,1812年に憲法が発布され,1814年にブルボン朝のフェルナンド7世が復位すると,憲法の存廃をめぐって対立が生じた。アレクサンドル1世は体制維持のために,スペイン出兵を要請し,スペインのブルジョワ的発展を希望したイギリスのキャッスルリーはこれに反対した。1820年10月からのトラパウ会議では意見が対立し,1821年1月からのライバハ会議では,オーストリアがイタリアに出兵することを認め,1822年10月からのヴェロナ会議で,フランスがスペイン出兵の承認をえた。この決定に怒ったイギリスのカニングは五国同盟から引きあげ,フランスもやがてこれに従った。ウィーン体制はこれによって,身分制色の濃い,君主主義原理の国家のみによって支えられる中・東欧体制となっていった。
【反体制運動】フランス革命やナポレオン時代を通じて,自由主義や民族主義の思想がヨーロッパ全土に広まっていたにもかかわらず,ウィーン体制はそれらを革命と同一のものとみなしたために,反発も強かった。ことに,メッテルニヒのいたドイツでは,市民や学生による反体制運動がおこった。1832年5月に,急進民主主義市民が人民主権・共和政・ドイツ統一を求めておこしたハンバッハ祭典事件もその一つであり,1815年以来,イェナ大学を中心にしておこり,全ドイツの組織となって,ドイツの自由と統一を求めたブルシェンシャフトもこれに数えられる。メッテルニヒはブルシェンシャフトのメンバーであるザントがコッツェブーを暗殺したのを機に,カールスバートの決議を行ってブルシェンシャフトを解散させ,これらの運動を弾圧した。1837年にハンノーヴァー憲法問題から派生したゲッティンゲン大学7教授事件も,この種の事件に数えられる。
【体制の崩壊】国際的にみても,自由主義や民主主義が支配者との対決の色を強めていったが,それが爆発するのはメッテルニヒなどの目がとどかない周辺からであった。ラテン=アメリカは,ほぼスペインの植民地であったが,ナポレオン戦争中,本国は植民地にまで手がまわらず,かつ,アメリカの独立をみて,独立の思想をもつようになった。メッテルニヒは独立をもって革命とみなし,これに干渉しようとしたが,イギリスは強く反対した。ベネズェラやパラグァイはすでに1811年に独立を達成していたが,その他のラテン=アメリカ地域も,ボリバル(1783〜1830)らに指導されて,本国の旧植民地政策と戦い,1816年にはアルゼンチン,1818年にはチリが独立したのを初め,ほとんどの地域が1820年代に独立し,ウィーン体制を消滅させるきっかけをつくった。ヨーロッパではトルコの支配から独立しようとするギリシア独立戦争が,フィルヘレニズムの思想に支えられて成功し,フランスでは1830年に七月革命がおこり,その影響を受けながら,ベルギーが独立を果たし,支配者の変更を革命としていたウィーン体制に打撃を与え,事実上はこれを崩壊させ,ウィーン体制は単なるメッテルニヒ体制になっていった。
【1848年】自由主義や民族主義が定着していくとともに,19世紀になってから,ヨーロッパ大陸に産業革命がおこり,それがブルジョワジーの実力を向上させ,工業労働者を生みだした。こうしたことが,フランスの二月革命,ドイツの三月革命を初めとする1848年の諸革命を勃発させた。ウィーンで3月13日におこった革命によって,メッテルニヒはその日のうちに亡命し,ウィーン体制は名実ともに消えた。ドイツの革命は成功しなかったが,革命後の保守体制のもとでも,ウィーン体制という国際体制は,一定の歴史的使命を終えて,再建されることはなかった。