●ウィーン会議 ウィーンかいぎ
ヨーロッパ オーストリア共和国 AD1814
フランス軍およびナポレオンによって混乱したヨーロッパの再建のために,1814年9月から,中断期を含みながら,1815年6月8日まで開催された列国会議をいう。オーストリア外相メッテルニヒが主催したが,各国のおもな代表は,イギリスのカスルレー・ウェリントン,プロイセンのハルデンベルク・フンボルト,ロシアはネッセルロード以下を引きつれたアレクサンドル1世,フランスはタレーラン,法王庁はコンサルヴィで,ウィーンには2皇帝・4王・1女王をはじめ,列国の主要な人物が集まったので,物価が高騰した。【踊る会議】1814年5月30日,列国とフランスのあいだには第1次パリ条約が締結され,フランス国境を1792年当時のものとすること,ナポレオンが占領したオランダやドイツ・イタリア諸国の独立回復が認められていた。しかしウィーン会議の主要議題であるヨーロッパ再建については,各国間の,とりわけ,ナポレオン打倒に功あったイギリス・プロイセン・オーストリア・ロシアの利害が一致せず,舞踏会や観劇を利用した個別的な裏取引が盛んであったので,「会議は踊る。されど会議は進まず」と評された。もっとも難問はポーランドおよびザクセン問題で,この機をとらえて勢力を及ぼそうとするロシアに対し,イギリス・オーストリアはこれを阻止しようとし,プロイセンはオーストリアを牽制するねらいでロシアに組みした。この問題はフランスがイギリスを支持したので,ロシアの意図は十分に達成できなかった。また,フランス代表のタレーランは各国の対立を活用して,敗戦国フランスの国際的地位を維持するのに成功した。
【会議の原則】会議はほとんど大国の合意によって運営され,小国は結果を知らされるのみで,大国の利害の調整とその均衡をはかってすすめられた。それゆえ,大国主義と勢力均衡が会議の原則であったといえる。さらに,フランス革命より,4半世紀にわたってつづいた動乱のあとのヨーロッパを安定させることを目的としていたので,保守主義の立場をとっていた。また,ヨーロッパを混乱させたのは革命やナポレオンであって,フランスではなく,フランス王国こそ最大の被害者であることを主張するために,タレーランが唱えた,国土は正統な支配者によって統治されるべきであるとする正統主義が基調とされ,最終議定書にもられた。
【ナポレオンの百日天下】会議は利害が一致せず,紛糾したが,この間エルバ島を脱出したナポレオンが,1815年3月20日にはパリに入って帝位に復活した。このことによって,第7回対仏同盟がイギリス・オーストリア・プロイセン・ロシアのあいだに3月25日に結ばれ,同盟軍は6月18日のウォーターローの戦いで,最終的にナポレオンを破り,百日天下を終わらせ,ナポレオンをセント=ヘレナ島に送った。この戦争の結末は,ウィーン会議終了後の1815年11月20日,第2次パリ条約となり,フランスは7億フランの賠償金,要塞の放棄,国境の修正に応じねばならなくなるが,ナポレオンの再起が各国に危機感をもたらし,ウォーターローの戦い以前に最終議定書が承認されることになった。
【条約の内容】最終議定書のおもな内容は,[1]フランス・スペイン・ポルトガル・ナポリ・サルディーニァなどでは,正統主義にもとづき,旧王家が復位した。[2]オーストリアはネーデルラソド(ベルギー)・ポーランドを放棄し,ヴェネツィア・ロンバルディア・ザルツブルク・ダルマティアなどを獲得し,フランクフルトに議会をもつドイツ連邦の議長となった。[3]プロイセンはポーゼン・ダンツィッヒ・ポンメルンなどを加えた。[4]イギリスはマルタ島・ヘリゴランド島およびフランスなどから若干の植民地を得た。[5]ロシアはワルシャワ大公国の大部分を合併して,ロシア皇帝を王とするポーランド王国をつくり,フィンランドやベッサラビアを獲得した。[6]スウェーデンはポンメルン・フィンランドを失った代わりに,デンマークからノルウェーを得た。
【結果】ウィーン会議後,ヨーロッパは自由主義・民族主義を抑え,革命を警戒した保守的なウィーン体制のもとに置かれた。体制維持の中心になったのは神聖同盟と四国(のちに五国)同盟である。ウィーン体制は,ブルジョワ体制をとっていたイギリスやフランスが離反していったことで,中・東欧体制となり,中・南米諸国の独立,ギリシアやベルギーの独立,カルボナリ党やブルシェンシャフトの活動などで動揺し,1848年の諸革命で終止符がうたれたが,フランス革命以来の動乱を静め,ヨーロッパに安定をもたらした一面は認められる。