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●ウィーン

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 オーストリア共和国の首都。音楽・美術の中心で,世界的な観光都市であるばかりでなく,オーストリアが中立国であるところから,国際会議や交渉の場にもしばしばなっている。連邦直轄区都市で,面積は414平方km,人口は160万人余。

【位置,景観】東経16度40分,北緯48度15分の辺りにあり,首都としてはオーストリアの東側に偏している。ドナウ川中流に沿い,市内にはドナウ運河が流れている。西方には広大なウィーンの森が,南には丘陵があって盆地状になっている。市の中心部である第1区には,ハプスブルク家の新・旧居城(ホーフブルク,現在は一部が図書館などに使用)や136mのゴシック式尖頭をもつ聖シュテファン聖堂があり,ここから,現在はショッピング街となっているケルントナー通やジンガー通がのびて,かつての繁栄のあとを示している。第1区の周辺は,19世紀後半につくられたリンクと呼ばれる道路が半円状に囲み,バス・市電などの交通機関の中心にもなっている。リンクの外にはバロックロココ様式の教会や貴族の旧邸が多い。聖ミヒャエル教会カール教会・シエーンブルク離宮・ベルベデーレ宮殿などがこれにあたる。市の外壁を利用して,1890年からつくられたギュルテルと呼ぶ環状道路の外は,その後建設された新市街となり,工場も多い。ウィーンには1365年設立の大学やブルク劇場,国立オペラ劇場,オペレッタの中心になったフォルクスオパー・図書館・美術館・博物館などが整い,プラター公園をはじめ,公園が多く,ウィーンの森も市民が好んで散策するところで,その近くではホイリゲという新ブドウ酒が名物となっている。

【交通・産業】ウィーンはもともと,アドリア海から中央ヨーロッパに抜ける交通の要路,ドナウ水路の中継地として栄えた。その役割は現在も変わらず,空港および二つの鉄道駅からは,各地に乗客を運び,国内のみでなく,国際的交通の中継点となっている。とりわげ,チェコスロヴァキア・ハンガリー・ユーゴスラヴィア・ギリシアなど東・南ヨーロッパに通ずる窓口としての意味は大きい。ドナウ川を利用した物資の輸送も盛んである。交通の中継地として発達したウィーンは,本来,商業都市であり,現在もその本質は失われていない。しかし,第一次世界大戦後,とくに第二次世界大戦以後は,新市街に,繊維・化学・機械・金属・食品工業が盛んになり,天然ガス・石油などのエネルギー産業もおこって,国内工業の中心となっている。出版・家具・宝石・陶器などの産業もある。

【歴史】ウィーンのもとは,ケルト人の集村に,ローマ時代に軍事宿営地が設置され,ウィンドボナ(またはウィンドミナ)と呼ばれて,軍事・交通の拠点になったことから始まる。以後,ドナウ交易とともに発展してきたが,ハプスブルク家が1276年に,ここを居城としたことから,神聖ローマ帝国の首都的存在として栄えた。それに伴って人口も増加し,1600年には,当時では国際都市の水準である10万人に達し,19世紀初めには25万人,半ばには50万人,1910年には200万人に達した。中世末期から近代初頭にかけて,オーストリアの東・南部に強大な勢力をもったオスマン=トルコは,しばしばオーストリアを攻め,1529年および1683年には,トルコの大軍がウィーンを包囲した。その危機をのり越えたことが,多くのバロック建築を建てさせることになり,文化的にも発達してくる。ことに18世紀以後は音楽の都となり,モーツァルトベートーヴェンシューベルト・シュトラウスらが活躍した。トルコから伝えられたコーヒーも,この都市を通して各地にひろまった。19世紀のビーダーマイヤー期から世紀末のあいだ,カフェーでこの都市独自の雰囲気がつくられた。ウィーン会議は国際都市であるウィーンにふさわしく,その後も繁栄したが,第一次世界大戦後はオーストリアの国際地位の低下によってかげりがみえはじめ,第二次世界大戦で壊滅的に破壊された。戦後1955年まで,アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の共同管理下に置かれた。

〔参考文献〕M=ブリヨン,津守健二訳『ウィーン,はなやかな日々』

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