●ウィリアム王戦争 ウィリアムおうせんそう
ヨーロッパ フランス共和国 AD1689 ハプスブルク朝
ウィリアム3世の治世下,アウグスブルグ同盟戦争に呼応して北アメリカ大陸におきたイギリスとフランスの戦争(1689〜97)。隣接する両国の北アメリカ植民地はインディアンとの同盟関係をまき込みながら対立し,争いが絶えなかった。イギリスの宣戦布告(1689年5月)により戦争が始まると,ルイ14世はイギリス植民地に対して強硬な政策を採ったかつてのカナダ総督フロントナック伯を,再度任命した。1689年10月,彼がケベックに着任したとき,イギリス側と友好関係にあるイロクォイ族がモントリオールから6マイル足らずのラシーヌまで攻め入り,またメインのぺノブスコットにあったフランスの前哨地はニューイングランド勢に略奪された。これに対しフロントナック伯はニューヨークとニューイングランドの辺境居住地を次々に襲撃する作戦に出た。まず1690年2月,フランス兵とインディアンからなる部隊は,ニューヨークのスケネクタディを全滅させた。次にメインとニューハンプシャーを襲い,イギリスの前哨地であったフォート=ローヤル(現在のメイン州ポートランド)を降服させた。他方,マサチューセッツは1690年4月,ウィリアム=フィップス卿の指揮下に7隻からなる艦隊をフランス軍の主要拠点の一つであるポート=ロワヤル(ノヴァ=スコシア)に派遣,これを占領した。ニューヨークのヤコブ=ライスラーの共同防衛の呼びかけに応じて,マサチューセッツ・プリマス・コネチカットの各植民地は,陸路からモントリオールを,海路からはケベックを攻撃することを決めた。フィッツージョン・ウィンスロップに率いられて,ニューヨークとコネチカットの軍隊は陸路モントリオールをめざしたが,内部の指導者争い・軍需品不足ならびに予定していたイロクォイ族の援助が得られなかったことなどから,シャンプレーン湖より先に進むことができず,遠征は失敗に終わった。海路からケベックを攻めることになっていたマサチューセッツは,再びフィップスを指揮官として艦隊を送った。しかし,フロントナックはこれを予測し,ケベックに軍隊を集結させていた。この守りの前に,大部分は漁師からなり訓練も不足していたフィップスの艦隊は退却を余儀なくされた(1690年5月)。イギリスおよびフランスの各植民地はそれぞれ本国に助けを求めたが,ともに十分な支援は得られないままに,形勢は概してフランス側に有利であった。フロントナック伯はポート=ロワヤルを奪回,ニューファウンドランドを併合,ハドソン湾の通商居留地からイギリス商人を追い出した。しかし双方に決定的な勝利がないままに,1697年のライスウィック条約によって和議が成立し,領土については1689年以前への復帰が決められた。