●ウイグル
アジア インド AD
カイコツ※注1※・回鶻は唐・宋代の表記。現在は維吾爾と表記される,中華人民共和国新彊ウイグル自治区の基本人口であるチュルク系民族。本来は北アジア史に登場する部族名であり,隋・唐代の記録から現在までは,ほぼ一貫した脈絡をたどることができる。漢代史料の北方民族中の名称に,類似の原音を求める研究もすすめられているが,関連が推定できるのは,南北朝時代にチュルク系民族を総称的に表現した高車の12姓の一つエンコツ※注2※からであろう。隋代には,鉄勒(turkを音写した当時のチュルク族の総称)の1部族イコツ※注3※として,突厥の支配下にあった。突厥第一帝国末期に,他のチュルク系諸族と反乱をおこすが,ついで薜延陀(せつえんだ)の漢北支配に服する。薜延陀滅亡後のカイコツ※注1※は646年(貞観20)には他の鉄勒諸部とともに唐に帰服し,翌年カイコツ※注1※の地には瀚海都督府が置かれ,燕然都護府のちの安北都護府下に配された。このころ突厥を除くチュルク系民族については,カイコツ※注1※を初めとする有力部族連合体を意味する九姓鉄勒(トグズオグズ)の用語が現れる。復興突厥,いわゆる突厥第二帝国の盛時には,カイコツ※注1※の主力は河西方面にいたようであるが,727年(開元15)には北帰し,744年(天宝3)の突厥滅亡後,新たな漢北の覇者となる。この遊牧ウイグル国初代可汗に,「湖の如く広き知恵を持つ」ギョル=ビルゲとして即位するのが,骨力裴羅(クトルクボイラ)であり,唐朝からは壊仁可汗の号を贈られている。この国は九姓カイコツ※注1※とも呼ばれ,3代のあいだに国内を固めて降盛期を迎えた。おりしも755年(聖武1),勃発した安史の乱には唐に援軍を送っている。これを機にその一部が残留するなどその後唐国内での生活者も多く,漢文史料にはウイグル人の唐での横暴ぶりも散見されるが,反面,彼らと中国貴族文化との接触をうかがわせる。780年から15年ほどは,内紛と外患に終始するものの,第7代壊信可汗の時代8世紀末前後には「西方拓彊」も行われ,最大の領域に達したと考えられる。続く8代保義可汗・9代崇徳可汗のころには,唐との関係も再び活発化し,崇徳可汗には太和公主の降嫁も実現し,互市も盛んに行われた。しかし,第12代可汗位をめぐる内乱は,キルギス族導入による王庭カラバルガスン焼尽の事態を招き,840年遊牧ウイグル国は崩壊する。このウイグル国は,薬羅葛(ヤクラカル)氏出身の可汗のもと,かなり発達した国家組織を有していたようである。ウイグルの文化面で,唐に劣らない影響を及ぼしたものが,西方からのソクド人であり,マニ教の盛行を初めそれに負うところが大きい。また遊牧ウイグル国は,彼らの手になるいわゆるウイグル碑文を残しているが,突厥文字の改良体で刻まれたその記録は,貴重な第1次資料である。遊牧ウイグル国滅亡後の残存勢力の主力は,新可汗を奉じて唐の北辺に移った13部と,西に逃れた15部に大別されるが,そのうちの南下13部は流浪の末,10年足らずのあいだに散消してしまう。西走15部のうちカルルクに没入したものは,その後10世紀後半にカルルクに代わって,西トルキスタンを支配するカラハン朝と関係があると考えられている。河西方面に移ったものは,甘州や沙州に小王国を建設して東西交易に活躍するが,西夏の興起によりその勢力下に組み込まれた。また宋代史料に現れる黄頭回鶻は,元・明代にはサリ=ウイグル,清代にはシラ=ウイグルとして伝えられる,現在の裕固族であろう。一方,天山方面に移住した一群は,唐の北庭都護府の地ビシバリクを中心に,天山山脈南北にまたがるいわゆる天山ウイグル国をつくる。イスラム史料にはトグズ=オグズとされ,遊牧ウイグル国の後裔とみなされていたことをうかがわせるが,国家構造をはじめその国の歴史の多くが不明である。とはいえ彼らウイグル人は,この地で定着生活に入り,そこではマニ教と同時に仏教が行われ,また新たにソグド字系のウイグル文字を採用し,それによる生活記録を残している。彼らは商業民として活躍するものの,西遼・蒙古の支配をへて国家としての存在を失い,その間にイスラーム化して現在にいたる。
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