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●ヴァロワ朝 ヴァロワちょう

ヨーロッパ イタリア共和国 AD 

 中世のフランス王家。1328年カペー王家の男系が絶えたのを機に国王選挙会議で選出されたフィリップ6世(1293〜1350,在位1328〜50)に始まる。これはヴァロワ伯シャルルの長子で,従姉妹のイザベルの子,イングランド王エドワード3世とフランス王位を争う形となり,これが百年戦争のおこるきっかけになった。15世紀末のシャルル8世まで男子継承者が続き,これを「直系ヴァロワ王家」と呼ぶ。1498年シャルル8世(在位1483〜98)が死去し,オルレアン侯ルイ2世が王位を継いだ。ルイ12世(在位1498〜1515)である。これは直系ヴァロワ家系のシャルル6世(1380〜1422)の弟の家系で,「ヴァロワ=オルレアン王家」と呼ぶ。これは1代限りで,1515年,ルイ12世が男子を残さず死去すると,王位は彼の従兄弟の子にあたるアングーレーム伯フランソワに継がれた。フランソワ1世(在位1515〜47)であり,この家系を「ヴァロワ=アングーレーム王家」と呼び,これが1589年にアンリ3世(在位1574〜89)が死去するまで続いた。

 直系ヴァロワ王家が成立したころ,ヨーロッパ内陸の経済に赤信号がともった。それ以前とはちがって耕地も増えず,人口も伸び悩むという低成長の時代に入ったのである。1348年のペストの大流行(黒死病)の災禍がこの傾向を加速した。王家の初期歴代の当主は,フランス領内に進駐したイングランド王家の軍勢と戦いながら,この経済の混乱に対処しなければならなかった。通貨は混乱し,財政は破綻を来たした。商人は王政の改革を求め(ユチエンヌ=マルセルの乱),農民は支配の建て直しをはかる領主層に対し武装蜂起した(ジャクリーの乱)。ジャン2世(在位1350〜64)は公私未分の王家財政から,まず戦争会計を切離し,塩の専売益金(ガベル)など課税の方式を工夫し,職にあぶれた傭兵を集めて王軍に編成するなど,見方によってはその場しのぎの方策を必死にさぐった。この変動にはつよい内発的文化の側面があって,それを説明するには,11世紀以降,ヨーロッパ内陸社会そのものが一つの独得のタイプの社会として確立されていく全体の動きを問う必要がある。

 12世紀ヨーロッパ文化という一つの文化の一部分として,「ラテン古代の著述の影響,法学の新生と多彩な歴史叙述,ギリシア人(ビザンツの)とアラブ人の知識が西欧の自然学と哲学に与えた諸効果,学問教育の新しい施設の設置−広義にいって学問の復興」がみられたとハスキンズはみる。スペインにおげるアラブ人学者との接触は,11世紀後半,トレドがキリスト教徒側のものとなったころからより密度を増し,前後してシチリア島がイスラーム文化圏に向かって開かれた窓口となった。11世紀末以降の東方十字軍の侵攻は,ビザンツ文化圏とのより密な交流を促した。古典古代の学芸は,ビザンツ文化圏に貯蔵されたギリシア語文献,イスラーム教徒によって翻訳されたアラブ語文献の形で中世のヨーロッパ人学者に伝達されたのである。12世紀に入り,ボローニャにおけるローマ法の研究は,イレネリウスグラティアヌスらの学者を迎えて,さらに一段と展開した。一方,イングランドのバスのアデラードがユークリッドの『幾何学原論』をラテン語に訳す。ヴェネツィアのジャコモがアリストテレスの諸書のラテン語訳をつくる。カリンティアのヘルマンが,クリューニー修道院長ピエールの委嘱を受けて,『コーラン』のラテン語訳を完成する。これら12世紀前半の先駆者たちの業績を踏まえて、同世紀後半,イスラーム-ギリシア文献のラテン語への翻訳ラッシュがみられた。これと併行した学問教育機関「大学」の形成は,この古典古代の著述の「再生=ルネサンス」を背景としていたのである。