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●ヴァティカン

北アメリカ アメリカ合衆国 AD 

 カトリック教会の中枢たる教皇庁を中心とするバチカン市国をさす。面積44ヘクタール。ローマ市の西北部にある。ローマ教皇の公邸たるバチカン宮殿,世界最大の教会堂サン=ピエトロ寺院,その前面にひろがるベルニーニの設計による柱廊に囲まれたサン=ピエトロ広場,4世紀ごろといわれる手写本聖書をはじめ80万冊以上の蔵書を誇る図書館,フラ=アンジェリコやボッティチェリなどの名画を所蔵する絵画館,ミケランジェロの「最後の審判」で有名なシスティナ礼拝堂など,バチカンはいたるところ歴史的記念物にあふれている。

【歴史】ローマ市の西北部の丘陵およびその周辺一帯はティベル川の影響もあって,湿っぽく健康に悪いとみなされていた。しかし干拓が行われ,邸宅・庭園がつくられ,ネロ帝がこの丘の上に円形競技場をつくった。また,ネロはここでキリスト教徒を迫害しているが,その殉教者のなかに使徒ペテロがいた。ペテロの墓の上につくられていた聖堂は,キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌスによって大きなバシリカ風の大聖堂に改築された(着工326〜333)。工事は途中湧水で中断したりして30年以上も続けられ,35段の階段をもち,46本の柱のある203フィート×18フィートの荘大なポーチをもつ大バシリカ風聖堂が完成し,以後1000年あまりのあいだ,カトリック教会の信仰のシンボルとして崇められてきた。この聖堂は846年にはサラセン人によって荒らされているが,13世紀末にはジオットによってモザイク画が描かれている。「ローマ教皇のバビロン幽囚」(1309〜76)「アヴィニョンの幽囚」のあいだは荒れるにまかされていた。ただ,ベネディクトゥス12世(在位1334〜42)は屋根を修理し,エウゲニウス4世(在位1431〜47)は青銅製の扉をつくっているだけである。教会の大分裂(シスマ,1378〜1417)後のニコラス5世(在位1447〜55)にいたって,ようやく新しい大聖堂建設が構想され,1452年には着手されるが,ニコラスの死去で中断した。半世紀後の1506年4月18日,教皇ユリウス2世(在位1503〜13)はやっと新しい大聖堂の着工式を行った。工事はブラマンテ・ラファエロ・サンガロ・ミケランジェロと受け継がれ,その間プランも何回か変更され(最初はギリシア十字だったのがラテン十字に変更され,さらにギリシア十字に戻って,結局ラテン十字に落ち着いた),規模も拡大され,やっと1615年に完成した。同時に大聖堂の前のサン=ピエトロ広場も,ネロのオペリスクの移築,ベルニーニの手になる列柱廊下と荘麗な泉水などで飾られ,まさにカトリックの大本山としての雄大な姿につくられている。数多くの美術史上忘れてならぬ建物があるなかでも,とくに有名なシスティナ礼拝堂は,1473年シクスティウ4世(在位1471〜84)によって着工され,1481年には完成している。内部の壁・天井にはボッティチェリやギルランダーヨの筆になるフレスコ画が描かれているが,なんといっても圧巻はミケランジェロの「最後の審判」であろう。このようにして,ルネサンス期にバチカンは歴代の教皇がその財力を注ぎ込んで整備され,ほぼ現在の姿が生まれている。

 中世以来,有力な国家を欠いたイタリアは,19世紀になってようやく近代国家への動きを顕著にし,いわゆる「リソルジメント」がサルディニア王国を中心に行われるが,その過程で教皇領はイタリア王国に併合されてしまった。怒った教皇は一切の交渉を拒否し,世界にむかって「バチカンの囚人」と訴え,教会領の回復を訴え続けた。この問題は,1929年2月11日のラテラン条約で一応解決した。これによって,教皇庁がイタリア王国を承認するのに対し,イタリア王国もカトリック教を国家の唯一の宗教と認め,バチカン市に対する教皇庁の完全な主権を承認することになった。バチカン市(国)の国民はわずか1,000人で,そのすべてはなんらかの意味で教皇庁と関係をもっている。なおバチカンは独立国であるので,世界の多くの国と外交関係を結び,教皇大使を派遣している。

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