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●印旛沼干拓 いんばぬまかんたく

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 下利根南岸につながるW字型の印旛沼をめぐる村落は印東・印西,で約40カ村に及んだ。周辺の土壌は吸水性が大で地下水位も高く,排水不良である。雨水の残留量が多く,下総台地の水も低地に滞留したし,沼に流入する神崎・平戸川沿いの谷津田(やつだ)や台地下のがけ下に細長くのびる低湿地には,利根川増水期や氾濫時など逆流が押しよせ,江戸時代から昭和20年代前半まで大水害をもたらしていた。つまり印旛沼周辺地域では排水さえ十分に配慮されるならば干拓水田が容易にできる条件が逆に存在した。水田造成に必要な土は,たえず泥土を堆積しつづける沼辺と川筋を開削することにより獲得できる。印旛沼干拓は,17世紀後半以来,20世紀50年代まで官民の辛苦の積み重ねで何度となく試みられた利根水系の自然改造案に付随する大事業であった。親子2代ばかりか3・4代にわたり家産を傾けての地元豪農層の報われざる献身や労力提供の小農民たちの苦闘の上になされる地域再開発運動の典型的な事例であるといってよかろう。

【利根川と印旛沼】16世紀末の家康の関八州経営の開始とともに,関東郡代伊奈忠次は江戸湾に注ぐ水系全体を調整して水害対策と江戸防衛に全力をあげる。江戸北方の低湿地帯には遊水池状の原野・沼沢地が多くみられ,戦国末関東武士層の土着化が促進され,干拓水田が造成されてきた。しかし17世紀のいく度かの大洪水以来,関東地方(じかた)支配のかなめとして利根川本流の開削と東向計画が最重要課題となる。70年をかけて渡良瀬・思・鬼怒・赤堀・太田・常陸・谷原の諸河川を新しく開削したりあるいは連絡して東向の通流を容易にした。下利根周辺の湖沼と谷津田を遊水池に活用しながら利根水系の大奔流を南流(江戸湾)と東流に整理し,本流を銚子に落す(1669)。このため利根上流や神崎・平戸両川の増水量は印旛沼へ大量に逆流し始め,沼周辺の水田や屋敷地の冠水が多発するようになる。関東山地の土砂が乱流となって新削の利根川に流れ下り堆積し川床をあげ氾濫を繰り返し,印旛沼もますます浅くなり,水害は恒常的となって地域農民を苦しめた。

【水災の近世的政治背景】近世下総には天領や群小旗本領および譜代大名の飛地が多く複雑な支配関係であり,10万石前後の佐倉藩も18世紀中葉までは各氏とも転封がひんぱんであり,以後の堀田家を含め,幕府中央政界での顕職による加増や手当てに関心が強く,支配地域の生産性向上や地域再開発と民生救護に興味をもつほどの領主意識がなかった。したがって幕府中央の利根水系整備の犠牲が新しい下利根流域と湖沼沿岸に降りかかることにも注意が行き届かず,地域農民の生活を守ることができなかった。

【干拓の歴史】すでに18世紀初めまでには上流からの増水量を利根川口の安食(あじき)でしめ切り,水田を沼辺に干拓する地元豪農層の熱望が生まれる。平戸の染谷家・惣深新田の香取家・島田の信田家・下井新田の吉植家・瀬戸村の武田家・船穂村の横尾家・中根村の岩井家と加藤家ら豪農層と近世農政家(佐藤信淵二宮尊徳ら)および幕府官僚たちの協同計画が幕末までに何度も試みられる。1724年(享保9)の享保改革の新田開発策につらなる第1回以来,1780年,1783年(いわゆる田沼政治期)の計画をへて1843年(天保改革)には老中水野忠邦の率先指導のもとに5藩(鳥取・庄内・沼津・見渕・秋月藩)の割り当て工事(23万両)が強行される。1783年の浅間山大噴火による膨大な量の火山灰降下で河床がいよいよ上昇し,1800年(寛政12),1808年(文化5),1833年(天保4)と大洪水が襲来している窮状からの脱出作戦であった。また結局は両者ともに挫折するものの,鬼怒川・霞ケ浦・北浦・那珂湊をへて阿武隈河口に達する東北仙台米輸送ルートに下利根川を活用したり,中利根川から関宿をへて江戸川へ下り江戸湾へ入るコースのほかに,下利根から印旗沼をへて検見(けみ)川の開削運河を利用して江戸湾へ直接に短絡するルートを開設すれば,海防上も江戸湾口の暴風波浪と海流対策上も好都合という大プロジェクトに,印旛沼干拓は連動していった。

【近現代の干拓】明治以降は1870年(明治3),1877年(明治10),1902年(明治35),1921年(大正10),1941年(昭和16)などの試みが生まれては消えた。第二次世界大戦後の食糧不足と農地改革の激動のなかから農民定着と食糧増産のための沼の全面干拓を目的として,放水路建設とともに151億円の資金と24年間の官民の努力により,1969年(昭和44)に936ヘクタールの干拓水田開発が完成した。享保以来の250年に及ぶ農民の悲願が成就したといえよう。近代の試みのなかにも旧幕臣平山らの大成会教団,お雇い外人技師デレーケ,金原明善奈良原繁・鈴木安武・前田正名らの大明会利根治水協会中央開墾社らをはじめ,とくに農政家織田完之(1842〜1923)の心血を注いだ干拓と開削への苦闘を忘れることはできない。佐藤信淵の再評価はここから生まれたし,印旛沼干拓運動の250年は,地域民衆と民衆的農政家のうるわしい連帯の贈り物であったといえよう。

〔参考文献〕織田完之『印旛沼経緯記』1892,複刻 名著出版

栗原東洋『印旛沼開発史』全4冊 同刊行会

兼坂祐の印旛沼開発文庫(千葉)収集の諸文献

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