●インド-ムスリム同盟 インド-ムスリムどうめい
アジア インド AD1906 英領インド帝国
1906年ダッカのナワーブ=サリーム=ウッラーの提唱により結成。インド-ムスリム(インドのイスラーム教徒)の社会・政治権益の擁護を目的とした。結成の契機は1905年総督に着任したミント(1905〜10)の分割統治政策にある。彼はインド国民会議派の勢力を抑制する方策としてムスリム勢力の助長と両者の対立を企図し,将来の選挙におけるムスリムの政治的権益に対する配慮を表明。ムスリムはその要求実現にむけて政治団体としての連盟を設立。その主要綱領はイギリス植民地政庁に対するインド−ムスリムの忠誠表明,ムスリムの政治的権益の擁護およびそのための請願,他教徒との協調,である。1909年モーリ=ミント改革によってインド参事会法が制定。そのなかにはインドの自治権の漸次的実現とともにムスリムにとくに有利な宗教別選挙制度案が盛り込まれた。連盟はそののち1914年まで,一方ではベンガル分割支持・ボイコット反対など宗主国イギリスの政策を“支持”し,他方,国民会議派の運動に反対しつつ,特権的な選挙制の確保を要求していった。1914年第一次世界大戦でオスマン=トルコがイギリスと対立すると事態が変わる。“同朋”イスラーム国であるトルコはイギリスの敵国となったため,ムスリム連盟はしだいに反英的姿勢をとりはじめた。1915〜16年にはジンナーなど新しい指導者たちが連盟に台頭し,彼らは国民会議派と一定の協調路線を打ち出した。他方,国民会議派も1915年のボンベイ大会ではムスリム連盟との協力によるインド新憲法制定の起草委員会結成を決議。1916年の国民会議派・ムスリム連盟のラクナウ大会では両者のあいだにラクナウ協定が結ばれ,インドの自治の達成と,ムスリムの宗教別分離選挙が承認された。しかし,1919年以後両者は再び対立する方向をめざすようになった。すなわち,国民会議派はガンディーの指導下にムスリム・ヒンドゥーの対立回避・統一的自治・反帝国主義の運動を続けたのに対して,ムスリム連盟はしだいにムスリム独自の要求を主張した。1940年のラホール大会でムスリム連盟はパキスタンの独立という決議で明確にその目的を表明した。つまりインド北西部・東部ではムスリムが多数を占めており,これら地域での独立国家を樹立するという考えであった。のちに1946年には単一国家構想に修正された。1946年3月,シムラで開かれた会議においてイギリスの内閣使節団は各州のコミュニティ別人口比率にもとづいて議員を選挙するという制憲議会の構想を発表。これに対して,国民会議派は参加を表明したが,連盟は当初賛成,のちに拒否を表明し,いよいよパキスタン分離独立への道を歩みだした。1946年8月12日のムスリム・ヒンドゥー間の流血対立を契機にウェーヴェル総督はムスリム連盟を支持した。1947年6月マウントバッテン計画によってイギリスはインド・パキスタンの分離案を提示し,ベンガル・パンジャーブ・スインドなどの分割は決定的となった。