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アジア インドネシア共和国 AD
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インドネシア
インドネシアは,1949年8月17日,約300年にわたるオランダの植民地支配から脱して,共和国(Republic of Indonesia)として独立した。
【国土と自然環境】インドネシアは,アジア大陸とオーストラリア大陸,およびインド洋と太平洋のあいだに位置している。赤道をはさんで北緯6度から南緯11度,東経95度から同141度のあいだにあり,東西約5,100km,南北約1,888km,面積は約190万4,564平方kmの広大な海域にわたる国家である。ヌサントラ(Nusantara)とも呼ばれ,この海域に無人島を含めて約1万3,000の島々があり,人々は約3,500の島に居住する。人口は,1996年現在,約1億9,222万人と推定されている。インドネシアを構成する島々は,地理的には,[1]スマトラ・ジャワ・カリマンタン(ニューギニアの南側大部分)・スラウェシ(セレベス)などの島嶼群(大スンダ列島),[2]バリ・ロンボク・スンバ・スンバワ・フローレス・ティモールなどの島嶼群(小スンダ列島),[3]ハルマヘラ・アンボン・セラム・ブルなどの島嶼群(マルク諸島),[4]西イリアン(ニューギニアの西半分)からなる。自然環境はきわめて複雑で,地質学的には,アジア大陸の延長であるスンダ大陸と,オーストラリア大陸の延長であるサルフ大陸からなり,両大陸のあいだは海底の峡谷部と海面上に出た頂上部が交替し,頂上部が島々である。スンダ大陸の山系は,二つの平行した弧をなす。内側の弧はスマトラ・ジャワ・小スンダ列島などで,これが北に折れてマルク諸島,すなわちモルッカ諸島へとつながる。外側の弧はスマトラ西海岸からのびて,スンバ・ティモールなどの島々からなり,そこから北に折れてカイ・セラムなどの島々となる。火山が多く,スマトラのクリンチ山など3,000m以上の山も多い。動・植物相もこれに符号し,インドネシアの西側地域では,平地には水田が開け,河口にはマングローブが密生し,椰子の海浜がある。バリ以東ではユーカリ樹が茂り,有袋類動物が棲息する。高山にはチーク・樫・松などがあり,それをシダ類や蘭の茂る熱帯林がとりまく。
気候は季節風の影響を受けて乾季と雨季に分かれ,それは位置,すなわち赤道の南北に位置するか,アジア大陸寄りか,またオーストラリア大陸寄りかによって異なる。11月〜3月は西から季節風が吹くので,南スマトラ・ジャワ・小スンダ列島にはインド洋から湿った風が吹き,雨をもたらす。6月〜9月はオーストラリア大陸から東南の乾いた季節風が吹き,乾季となる。この東南からの乾いた季節風は赤道を越えると,湿った南西風となり,北スマトラ・カリマンタンの中・北部,スラウェシ北部に雨を降らせる。そのため,これら地域では,雨量は一時的に減少することもあるが,乾季はないも同然である。東部ジャワと小スンダ列島には,はっきりした乾季がある。地域によって季節風の影響は異なり,降雨量にも地域差がある。カリマンタン・スラウェシ南東部・西イリアン・マルク諸島では,年平均2,030mm以上,東部ジャワ・スラウェシ北部は1,524〜2,032mm,小スンダ列島では1,016〜1,524mmである。地形により降雨量は異なり,山地や季節風の吹きつける側に雨が多い。気温は年間を通してほぼ一定しており,平地では23〜31度,山地では17〜27度であり,高温多湿な湿潤アジアである。
なお,ジャワを中心とする地域を「内領インドネシア」,それ以外の地域を「外領インドネシア」と呼ぶ。内領と外領とでは,人間の自然環境への対応が異なり,内領では肥沃な火山性の土壌を利用して集約的な水田農業が行われ,農業生産力が高い。このため,国土面積の7%のジャワに全人口の約70%が居住する。外領では水田耕作も行われているが,焼畑農耕への依存度が高く,人口密度も低い。文化人類学者C.ギアーツは,インドネシアがこのような二つのエコーシステムに分かれていると指摘している。
【民族と言語】インドネシアには300余の種族が居住し,言語も約250に分かれる。共和国の標語として「多様性のなかの統一」があり,これは,民族・言語などを異にする多様性に富む社会を,政治的にも文化的にも一体化させていこうとする意図から出ている。この多様性は,東南アジアの歴史が育てたものである。原史時代から,東南アジア大陸部の山ひだや川の流れに従って,アジア大陸中央部から何度か民族の移動が繰り返された。あとから移動してくる民族が文化も高く,先住民は多くの場合,海域へ押し出されていった。インドネシア島嶼部に住みついたのは,オーストロネシア語族,すなわちマライ=ポリネシア語族である。マライ=ポリネシア語はインドネシア語・ポリネシア語・ミクロネシア語に分かれるが,L.H.グレイはこれに属する言語が263あるといっている。語族という場合,言語と人種は必ずしも一致しないし,言語と文化要素も合致しない。インドネシア島嶼部に居住するインドネシア語族はきわめて広範囲にわたり,そのうちおもな言語としては,スマトラにアチェ語・バタック語・ミナンカバウ語・ジャンビー語・リャウ-リンガ語・ガヨ語・クリンチ語・パレンバン語があり,ジャワにはスンダ語とジャワ語,マドゥラ島にはマドゥラ語がある。また,バリ島にはバリ語,スラウェシにはマカッサル語・ブギス語・トラジャ語・ミナハサ語・サンギル語,カリマンタンには各種方言に分かれるダャック語がある。このうち,ジャワ語は多くの碑文などに記録されている。マジャパヒト王朝時代のジャワ語はカウイ語,すなわち古代ジャワ語といい,サンスクリットからの借用語が多い。また,1500年ごろまでの文献にみられるジャワ語は中期ジャワ語と呼び,それ以後のジャワ語を近代ジャワ語という。近代ジャワ語には貴族の用いるクロモと庶民の用いるンゴコとがあり,同じ言語にも階層性がみられる。これは,バリ語の場合も同じである。共和国政府は言語政策としてはインドネシア語による国語教育を行っているが,実際には,このような多くの言語が人々の日常生活において使用されているのである。
インドネシア人は,民族的には,(1)ネグリート,(2)ヴェドイド,(3)マレー系民族,(4)華人に分かれる。インドネシア人の主要部分はマレー系民族で,長期にわたる民族移動により広い地域の各地に定着したため,それぞれの生態環境から言語や文化を異にしている。しかし,身長は平均約160cm,長頭が多く,直毛で,皮膚は褐色または黄褐色である。ネグリートは短頭または中頭,広鼻,毛髪は縮毛または羊状毛,暗色または暗褐色の皮膚のピグモイド(小人)で,東小スンダ諸島に住んでいる。ヴェドイドはネグリートより長身であるが,背丈は低く,長頭または中頭,広鼻,皮膚は暗褐色,スマトラのシアクのサカイ族などがこれに属する。華人は約250万人と推定され,うち約100万人は中国籍,約90万人がインドネシア国籍をもつ中国人(中国系インドネシア人)である。中国の福建・広東出身者が多く,言語的には福建・潮州・広東・客家(はっか)の四つの言語を用いる集団に分かれる。
【歴史】インドネシアが歴史のあけぼのを迎えたのは,約50万年前と推定され,オランダ人学者デュボアが,1891年,東部ジャワのトリニールでピテカントロプス=エレクトゥス(直立猿人・ジャワ原人)の骨を発見した。その後,ソロ人やワジャク人の化石骨も出土した。これらの人類は,その後のインドネシア史とは直接の関係はない。インドネシア人の祖先は,アジア大陸から移動して,スマトラ・ジャワなどに住みついたものである。
[1]ヒンドゥー・仏教期:3世紀の初め,モンスーンを利用したインドとインドネシア間の海上交通が開かれ,インド文化が波及して,初期の国家が成立した。現在,知られている最古の国家は,カリマンタン東部のクティに存在したといわれ,ムアラカナムに5世紀前半と推定されるサンスクリット碑文が遺っている。国名などは不明である。これより約1世紀遅れて,西部ジャワにタルマ国が成立し,王の戦勝や運河の建設をたたえた碑文がある。国王を神の化身とみなすヒンドゥー教は,これらの国々の哲学であったらしい。また,大乗仏教や上座部仏教も伝わり,7世紀にはスマトラ東南部にシュリーヴィジャヤ王国がおこった。この国は河川国家・海洋国家として発展し,中国との貿易も行われた。唐僧の義浄はインド留学の帰途,約7年間ここに滞在し,仏典の漢訳を行い,『南海寄帰内法伝』を著した。この国は8世紀後半に衰退したが,このころ中部ジャワにシャイレンドラ王朝がおこった。この王朝は大乗仏教を信仰し,7層の方形基壇と3層の円形基壇からなるピラミッド型のボロブドゥールの仏教遺跡を築いた。『ジャータカ』など仏典に題材をとった方形基壇の浮彫りは,すぐれた文化遺産である。シャイレンドラ朝の王子,バーラプトラは,9世紀半ばごろ,シュリーヴィジャヤを支配した。このため,一時衰退していたシュリーヴィジャヤ王国は急速に発展し,マラッカ海峡・スンダ海峡をおさえて繁栄した。一方,中部ジャワではシャイレンドラ朝がおとろえ,マタラム王国がおこった。この国はヒンドゥー教のシヴァ神を信仰し,プランバナンなどの遺跡を遺した。10世紀初め,マタラム王国は首都を東部ジャワのクデリィに移し,クデリィ王国が成立した。クデリィ王国は約300年問,東部ジャワを中心に繁栄して,バリを支配し,スマトラ南部にも勢力をのばそうとしたが,シュリーヴィジャヤ王国の反撃により失敗した。しかし,シュリーヴィジャヤ王国も南インドのチョーラ朝の侵入を受け,10世紀には衰退した。
クデリィ王国はケン=アンロによって滅ぼされ,1222年,東部ジャワにシンガサリ王国が成立した。この国はモルッカ諸島とマラッカ海峡を結ぶ貿易で巨大な利益をあげ,文化も進み,最後の王クルタナガラの時代,マレー半島まで勢力をのばした。当時,中国の元は東南アジアにも支配を拡大しようとし,1289年,シンガサリ王国に使節を派遣したが,侮辱されて追い返された。元は,1292年末,2万の大軍を1,000隻の船に乗せてシンガサリ王国を攻撃しようとした。その半年前,クルタナガラ王はジャヤカトワンにより殺されていた。クルタナガラ王の女婿ヴィジャヤは,元軍の攻撃を利用して王国を再興し,一方,元軍を退却させ,マジャパヒト王国をおこした。マジャパヒト王国は,宰相ガジャ=マダのすぐれた政治力により内政が安定し,積極的な海外進出も行い,スマトラやマレー半島の一部に対しても支配を及ぼした。彼は宰相として34年間国政を担当し,その結果,ハヤム=ウルク王時代,マジャパヒト王国は黄金時代を現出した。宮廷詩人プラパンチャの『ナーガラクルターガマ』はその繁栄をたたえ,中国の汪大淵は『島夷誌略』でこの国の様子を紹介している。シャイレンドラ朝からマジャパヒト王国までのインドネシアは,ヒンドゥー・仏教の時代であった。
?[2]イスラーム期:マジャパヒト王国末期になると,イスラームが到来した。8世紀以来,ムスリム商人はインドネシア海域でも交易に従事していた。東部ジャワのグレシクの北にあるレランには,インドネシア最古のムスリム古墓があり,これは11世紀末の墓である。また,スマトラでは12世紀中ごろ,イスラーム教国ペルラク王国が成立していた。1292年,ここに立ち寄ったイタリア商人マルコ=ポーロは,『東方の旅』(『東方見聞録』)のなかで,ペルラクにはムスリム商人が頻繁に訪れるので,町の住民がイスラームに改宗していると記している。つづいて,サムドラ=パサイ王国も出現する。当時,ムスリム商人はスマトラやジャワの港市を訪れ,盛んに香料貿易を行い,港市の領主層や商人のなかにはイスラームに改宗するものがでた。また,イスラーム神秘主義者スーフィーの布教も行われた。彼らは,在家のスーフィーであるムスリム商人や職人とともに,貿易中継地に教団のネットワークをつくり,これを通してイスラームが人々のあいだに浸透していった。15世紀,中部ジャワにもイスラーム教国デマク王国が成立し,16世紀初め,デマク王国はマジャパヒト王国を滅した。デマク王国の軍司令官ファラテハーンは,チレボンにイスラーム政権を樹立し,その子ハッサン=ウッディンはイスラーム教国バンテン王国をつくった。ここに,西部ジャワのイスラーム化もはじまる。一方,中・東部ジャワでは,デマク王国からパジャン王国をへて,イスラーム教国新マタラム王国の成立をみた。その後,イスラームは島嶼部の東部や北部へ波及し,カリマンタンやスラウェシにもイスラーム教国が成立する。このようなイスラーム化において重要な役割を果たしたのは,15世紀初頭に成立したマラッカ王国である。建国者パラメシュワラはパレンバンの貴族であり,マラッカは東西貿易の中継地として栄えた。マラッカはイスラーム教国となり,ムスリム商人らによる島嶼部イスラーム化の拠点となった。
?[3]オランダの植民地支配:15世紀末以来,大航海時代が始まった。ポルトガルは,1511年,マラッカを占領し,アチェとバンテンが貿易港として発展した。香料の産地モルッカ諸島は,ポルトガルとスペインの争奪の場と化した。16世紀には,オランダ・イギリスも進出する。1602年,オランダ東インド会社(略称VOC)が成立し,1609年以後,総督の制度を設けて,イギリスと抗争しながら,バンテンの東方に良港バタヴィア(ジャカルタ)を開き,ここをオランダ勢力の根拠地とした。1623年のアンボン島虐殺事件を機に,オランダはインドネシア経営に専念した。オランダはマタラム王国の抵抗を受け,スルタン=アグンはバタヴィアを2回包囲した。マタラム王国はこれに失敗してオランダと和解し,1670年以後,東インド会社はマタラム王国の内政に積極的に介入,その領土を拡大していった。また,砂糖黍・藍・綿花・コーヒーなどを栽培させて,一定価格で買い占める義務供出制を行った。バンテンは東インド会社の属国となり,マタラム王国では3次にわたる王位継承戦争がおこった。1755年,東インド会社はマタラム王国を2分して,土地の一部を四つのスルタン王家にあたえ(王侯領),ジャワの大部分を直轄領とした。
フランス革命の余波を受け,オランダ共和国が成立すると,東インド会社は解散し,イギリスが1811〜16年にジャワを支配した。ナポレオン戦争終結後,イギリスがジャワをオランダに返還すると,オランダは土着の支配者を介して間接支配を行った。しかし,ジョクジャカルタ侯国の王子ディポネゴロは,農民を圧迫するオランダに対して,1825〜30年にゲリラ戦で抵抗した(ジャワ戦争)。スマトラのミナンカバウでも,1820〜37年,イスラームの純化を説くパドリ派ムスリムが,イマム=ボンジョールらの指導のもとにオランダに抵抗した(パドリ戦争)。オランダは,これらの抵抗を鎮圧したのち,強制栽培制度を実施した。これは,村落の耕地の5分の1に植民地政庁の指定する作物,おもにコーヒー・砂糖黍・藍を栽培させ,収穫物を一方的に買いあげる制度で,農民は重い負担を強いられた。オランダは莫大な利益を得た。植民地の悲惨な状態は,ムルタトゥーリの『マックス=ハーフェラール』などによって知らされ,1870年,強制栽培制度はコーヒーを除いて廃止された。以後,19世紀末まで,オランダは自由主義政策を行い,農業をオランダ人の経営にまかせ,プランテーション農業を実施した。しかし,農民の生活は楽にはならなかった。
(1/2:続く)
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