●インド統治法 インドとうちほう
ヨーロッパ 英国 AD
イギリスがインドを支配した時代に,統治の枠組みを決定した諸法。直接支配以前(1773〜1858)と,直接支配時代(1858〜1947)とに分けられる。プラッシーの戦い(1757)以後,インドにおける統治権を獲得したイギリスでは,1773年に規制法が議会を通過し,インドの統治権は東インド会社にあるが,議会が行政に監督権をもつことを決定した。この法はさらにベンガルに総督と参事会を置き,ここをインド統治の中心に置いた。1784年のピットのインド法は,イギリスに監督局を置き,商業以外の事柄に関する議会の監督権を強化した。1853年の特許状法では,東インド会社の貿易独占権が失われ,会社は事実上イギリス本国の統治上の出先機関になった。1857年のインド大反乱(セポイの反乱)を契機に,1858年インド統治改善法が通過し,インドの統治権はイギリス国王に属することになった。本国では監督局が廃され,インド担当大臣が置かれ,この統治方針を宣言したのが1858年11月1日の女王の宣言である。1861年にはインド参事会法が施行され,総督の行政参事会が5人に拡大,ヨーロッパ人民間メンバーが一人追加された。総督は強化された権限を利用して参事会に擬似内閣,各参事会員に擬似各省大臣的役割を与えた。61年法はまた,立法権をもつ総督の立法参事会開催のために6人から12人の会員,うち少なくとも3名は民間メンバーが追加任命されることを規定した。ここに,パティアラの藩王をはじめとする3人のインド人が立法参事会に任命されたのである。1892年のインド参事会法は,立法参事会員の一部に間接選挙の原則を導入し,予算を討議することも可能にした。1909年のインド統治法は,モーリー=ミント改革として知られる。これによって,インド人がインド政庁に大幅に参加するようになった。すなわち,総督の行政参事会にはS.P.シンが任命された。立法参事会の改革も大きい。中央立法参事会員数は50人に拡大された。総督の任命議員が多数を占めるものの,コミュニティごとに選挙される民間議員の数は増大した。予算討議権は継続し,軍事・外交など重要事項を除いては,政庁を縛らない勧告的な決議なら通過させることが可能になった。第一次世界大戦中にイギリスに協力したインドは,戦後の独立を期待したが,1919年通過したモン=ファド改革として知られるインド統治法は,以下の内容で期待はずれのものだった。変革の第1は,中央政府と地方州政府とに分け,州政府には二重政府と呼ばれる制度,すなわち地方自治・教育・厚生に関して責任統治を行ったことである。警察裁判・地税業務は保留事項と呼ばれ,国王に任命される知事が権限を保持したため,二頭政治と呼ばれたのである。中央政府は依然として,イギリス本国の政府と議会にのみ責任を負うもので自治も独立もない。州立法参事会では,コミュニティごとの被選挙議員が多数を占めることになった。中央立法議会は上下二院制になり,いずれも民選議員が官選議員より多いが,総督はこれに責任を負わないから無力なものであった。このような1919年法は,不十分なためにインド人の不満を抑えきれなかった。1935年のインド統治法はこれに応えようとしたが,インド大臣を通してイギリス議会に責任を負うインド総督という枠組みは変わっていない。特色は以下の3点である。[1]藩王国を含めたインド連邦制の確立。ただし,これは藩王国の反対のため最終的には実現しなかった。[2]地方における責任内閣制の実現。これにもとづき1937年には地方選挙が行われ,8州にインド国民会議派による内閣が出来た。[3]インド帝国からビルマの分離。35年法がきわめて不十分なまま,統一連邦制さえ日の目をみないでいるあいだに,1939年の「35年インド統治法修正法」により,戦時体制を確立するため総督の権限を強化するにいたったことは,インド民族運動の要求に逆行するものであった。
〔参考文献〕山本達郎編,『インド史』山川出版社