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●インド総督 インドそうとく

ヨーロッパ 英国 AD 

 イギリスがインドを支配していた時代にインドに置かれた統治の最高責任者。イギリス東インド会社は1757年プラッシーの戦いに勝利して,ベンガルを征服して以来,インドの主権を掌握し,その主権はベンガル・ボンベイ・マドラスの商人たちの会議が個別に行使してきた。1773年の規制法(インド統治法)はこの2地域に知事と参事会を置き,ベンガルには総督と,その参事会を置いて最高統治機関たることを決めた。こうして東インド会社の商業機能は縮小し,本国の公的機関の監督のもとに行政機能を増大させていく。1833年法はベンガル総督をインド総督と改め,その下の統治機構をインド政庁と呼ぶことに決定した。

インド帝国時代】1857年インド大反乱(セポイの反乱)がおこると,これを機会に翌年統治権が東インド会社の手から国王の手に移され,インドはイギリスの直接統治下に入った。これ以後,1947年の独立までいわゆる英領インド時代となる。イギリス本国は,国王の主権は内閣の1員,インド担当人臣により行使され,彼はインド税収から俸給を受けた(インド省)。インド総督はこのインド大臣のもとで,副王の称号でも呼ばれることになった。総督の下には行政参事会と立法参事会が置かれた。行政参事会は1861年法では5名,やがて7名に拡大され,うち3名は少なくとも10年間のインドの経験が必要とされた。参事会の各員は内閣のように,[1]内務,[2]税務・農業,[3]通商産業,[4]教育・厚生,[5]財政,[6]法務,の職務を分担し,[6]は,のちにインド人が担当するようになった。軍事は最高司令官が参事会員を兼任したが,1906年以後はこれが困難であるという理由で,軍事担当の参事会員は廃止された。外務は総督が掌握していた。総督は参事会に優越した絶対権をもっていて,本国のインド大臣の支持を得られれば,専制君主的に振舞え,参事会を召集せねばならぬ義務もなかった。立法参事会の歴史は1833年に始まる。しかしこのときは,立法参事会といっても総督と行政参事会に何人かが追加指名されたにすぎなかった。1861年に初めてインド人が指名されてメンバーに入り,1892年法でわずかながら選挙の原則が導入されて以来,1909年にはもう少し実質化されるなど,選挙される参事会員数も拡大していき,こちらは擬似国会的な役割を担っていくことになる。ただし,総督はいかなる法にも拒否権をもち,非常時には6カ月を超えない期限内なら法律を制定できる権限をもっていた。インド政庁とは,事実上総督と行政参事会を意味したといわれるが,1911年まではカルカッタに,1911年以後はデリー(夏はシムラ)に所在地を定めた。中央政府の下に各州があり,そこには知事が任命された。知事を置かずに政務長官を置いた小さな州は,中央政府の直轄支配下にあった。

 インド総督はイギリス国王の任命するもので,通常の任期は5年である。イギリス首相の2倍の俸給を得,700人の召使いにかしずかれていたといわれる。インド総督は,インドの知識よりはイギリス政界に通じていることが重要だったため,インド高等文官(I.C.S.)出身者は原則として任命されなかった。初代総督は,1833年就任のベンティンク(在位1835まで)である。1858年以前ではダルフージ(在位1848〜56)が,領土併合策を強硬に行ったためよく知られている。カニング(在位1856〜62)は,大反乱の鎮圧に名を残した。直接統治時代には,自由主義的なリポン(在位1880〜84)が最もインドに評判のよい一人。これに対し,帝国主義的なカースン(在位1899〜1904,ただし1904に中断)は,ベンガル分割を強行して反対運動を引き起こし,インド民族運動の覚醒を逆に促した人物であった。イギリス統治最後の総督は,1947年着任のマウントバトンで,彼が1947年8月15日のインドとパキスタンの分離独立を許したのであった。インド人として最初で最後の総督は,1948年就任のラーシャーゴーパラチャリヤであり,パキスタンの側では,1947年就任のジンナーが初代総督であった。

〔参考文献〕山本達郎編『インド史』山川出版社

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