●インド州再編成 インドしゅうさいへんせい
アジア インド AD1956 インド
独立インドの州行政改革のなかで最も重要な意義をもつ。1956年11月1日に全インドにわたって施行された。【背景】独立インドは周知のように連邦制国家であり,現在それは22の州(state)と9連邦直轄地(Union TerritorY)とからなっている。この連邦構想が初めてインド国民会議派によって提起されるのは「ネルー報告」(1928)においてであるが,そこでの意図はイギリス支配下での藩王国の存在を批判するとともに,言語・地域文化を基準にして合理的な州設置の実現を狙いにしていた。一方,第二次世界大戦期には全インド=ムスリム連盟がパキスタン独立を掲げるなかで州自治の方向を明らかにするが,他方でインド共産党は多民族統一を実現するための前提としてインド連邦を樹立する構想を打ち出していた。インド独立とともにただちに現行の州行政制度が導入されたのではなく,若干の曲折があった。何よりもまず,500を超える藩王国の併合が急務をなしており,インド憲法(1950)の施行で,州行政はA項州(旧英領諸州),B項州(旧藩王国)とC項州(旧政庁直轄地)とからなっていた。
【州再編の導入】独立当初から憲法施行時にかけて,インド国民会議派を与党とするインド政府は言語州の早期導入にはむしろ消極的であった。何よりの関心事は中央集権的な連邦国家の外枠を確実なものにすることにあった。有力な閣僚の一人は言語州の導入はインドの統一に斧をあてるものだとまでいいきっていた。しかし,言語州の実現を要求する大衆運動はとりわけ南インドのテルグー語使用地域とマラヤーラム語使用地域で激しい高まりをみせていた。前者がアーンドラ州,後著がケーララ州をそれぞれ要求しているのであった。また,与党会議派も工業化のための五カ年計画を進めるなかで州行政の能率化を促す必要性と言語州の実現とを考慮するにいたった。マラヤーラム語使用地域はイギリス植民地時代ではマドラス州と二つの藩王国の三つの行政区分下にあった。独立後もA項州とB項州とに分けられていたのである。もともとイギリス側はインドの地域言語や地域文化を念頭に置いて州境界線を引いたのではなかった。むしろ,自己の支配を効果的に進めるために,地域の状況を無視して,境界線を設定していたのである。
1956年11月の州再編成は14州と6連邦直轄地を生みだした。州の場合,同一言語を話す地域を一つの行政単位として設定する形をとり,この言語州設置はインドの多言語・多民族的現実を反映するものとして高い評価が与えられるものであった。こうした州行政の下部機構を土台にして初めて連邦制国家は成立するのであり,当然,パキスタンやスリランカにも適用されるべき内容をもっていたのである。先のマラヤーラム語地域はケーララ州として新発足したことはよく知られている。この新州の誕生が翌1957年初めの同州での共産党を中心とする連立政権の誕生へとつらなっていたことはいうまでもない。また,連邦直轄地の場合,地理的な条件が考慮されて設けられたり,大きい州に編入された場合に地域住民が小数集団として不利益を受ける可能性が大きいとして,特別な配慮がなされたのである。
【間題点】言語州の導入は理想的な州自治を根幹とする連邦制国家の実現を意味したのではない。ボンベイ州の場合,今回の対象から排除され,マラーティー語とグジャラーティー語の2言語州であって,分割は1960年にようやくなされた。また,首都デリーの場合,デリー州議会が解消され,不徹底な地方自治の亨受を首都民はよぎなくされるにいたった。より根本的な州自治の強化と発展が,その後の政治過程全体のなかで著しく制約されていったことは,インド政治の発展の上で問題化した。