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●インドシナ総督府 インドシナそうとくふ

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 フランスがインドシナ三国を仏領インドシナ連邦として支配した時代,本国政府の統治権限を代行した最高機関,仏印総督府。19世紀後半にインドシナを侵略したフランスは,1859年にヴェトナム南部のサイゴン地方を占領し,1862年に阮朝と講和して締結した第1サイゴン条約によって南部6省のうち東3省を仏領コーチシナとして割譲させた。ついで1863年にカンプチアを保護国とし,その一方で1867年までにヴェトナムの南部西3省を占領してコーチシナに併合し,これを1873年の第2サイゴン条約によって阮朝に認めさせた。さらに1884年のフエ条約によってヴェトナムの中部と北部にも保護権を確立して,それぞれをアンナム保護国,トンキン保護領として,海軍省または商務省の管轄下にある,コーチシナと異なる外務省が管轄する間接的な植民地支配を及ぼした。その後1887年に管轄権の不統一を整備するために,以上の4地域を仏領インドシナ連邦として統合し,サイゴンに総督府を置いて連邦行政を統轄したが,1893年に拓務省が創設されると,総督府はその管轄下に移され,総督は拓務大臣に直属することになった。フランスは1888年にトンキンとアンナムの重要都市,ハノイ・ハイフォン・ダナンを直轄地とし,1898年には清仏協定によって清国から租借した広州湾を,1899年には保護国としたラオスを連邦に編入し,1902年に総督府所在地をハノイに移した。また1907年にシャムから現在のカンプチア西部2州を直接統治領として奪った結果,最終的にインドシナ連邦は1租借地・1保護領・3保護国・5直轄領によって構成された。総督府による連邦統治の初期は,植民地経済の発展に最初の成果をもたらした第4代総督ド=ラネッサンの施政に代表される協同主義の色彩が濃かったが,本国政府の植民地政策に合致しなかったため,第6代総督P.ドウメルの時代に極端な本国主義に立脚した同化政策と中央集権主義がこれに代わった。ドウメルは鉱山開発や鉄道の敷設等を含めて,インドシナを有力な市場であると同時に安価な原料の供給源とするために,植民地主義者として辣腕をふるい,インドシナを最も投資効果のある仏領植民地に仕立てあげた。総督府の統治体制と機構もほぼこの時代に完成し,各地域に名称と性格を異にする議会や諮問会議が置かれ,現地の支配階層が部分的に連邦行政に参与し,総督が本国政府に対してインドシナ全般の利益を代表する形式もこのころに基礎がなった。しかし実際には,これらの諮問機関が具体的に機能することはなく,総督は絶大な権限をもって,保護国と保護領に置かれた理事長官や直轄領の行政を分掌する副総督など,各地域の行政長官に対して独裁的指揮権をふるい,各行政長官は総督の権限を代行して行政各部局を監督した。最高行政長官である総督は,本国に対してインドシナの政治的全責任を負ったため,立法・司法・外交・軍事・財政に関する広範囲の権限と,特定事項について拓務大臣の承認を必要としない専決権が賦与され,とくに政治犯に対する司法権限は絶大であった。現地の反抗を抑えるための巧妙な分割統治と愚民政策を基本の方策とし,徹底的にフランス資本の利益を追求した総督府の仏印支配は,アジアにおける英国やオランダの植民地統治と比較して,多分に苛酷な抑圧と搾取を実行したため,20世紀に入るととりわけヴェトナムで抗仏闘争が盛んになり,歴代総督は反乱の鎮圧と政治犯の摘発に腐心し,独立革命派を懐柔するために,地方分権主義と協同主義や人道的統治を掲げた総督も何人かあったが,つねに成功しなかった。1920年以降,共産主義組織が独立運動の中心になると,総督府は軍隊を動員して厳しい弾圧を行い,本国における人民戦線政府の成立時に圧政はわずかに緩和されたものの,現地住民の基本的人権を蹂躙した統治は,総督府の歴史に一貫していった。1940年本国がドイツの侵略に敗れた後,日本・仏印軍事協定が成立し,日本軍のインドシナ進駐が行われると,総督府は日本の侵略行為に迎合したが,1945年3月の日本軍の仏印処理によってその統治体制は実質的に解体した。