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●インドシナ戦争 インドシナせんそう

ヨーロッパ フランス共和国 AD1946 フランス共和国第四共和政

 1946年11月フランス軍のハイフォン砲撃に始まり,1954年7月ジュネーヴ協定による休戦まで,ヴェトミン(ヴェトナム独立同盟)軍とフランスのあいだに闘われた戦争を第1次インドシナ戦争と呼ぶ。これは第二次世界大戦後アジア・アフリカ地域に多発した植民地独立戦争の代表的なものである。それに引き続いて,南ヴェトナムの内政混乱に端を発し,とくに1960年12月北ヴェトナムの支援を受けて南ヴェトナム解放民族戦線(NFL)が成立してから,1975年4月30日のサイゴン陥落にいたるまで,北ヴェトナム・NFLと南ヴェトナム・アメリカなどのあいだで,ラオス・カンボジアをも巻き込んで闘われた戦争を第2次インドシナ戦争と呼ぶ(通常,ヴェトナム戦争とも呼ばれる)。東西対立激化のなかで闘われたこの戦争は,典型的な米対中・ソの代理戦争としての側面もあったことは否定できない。

第1次インドシナ戦争】日本降伏の翌月すなわち1945年9月,ホー=チミンはハノイにおいてヴェトナム民主共和国の独立を宣言し,自ら大統領となった。だが,ほぼ時を同しくして,日本軍武装解除のため,北部には中国国民党軍,南部にはイギリス・フランス軍が進駐。旧植民地の復活を狙うフランスとのあいだに,南部では早くも衝突が始まった。1946年3月,フランス連合内のインドシナ連邦構成国として民主共和国の独立を認めるとする協定(三・六協定)が両者間で結ばれたが,あくまで完全独立をめざすヴェトミンと,植民地を手放す意志のないフランスの隔りは大きく,実効はもちえなかった。同年12月19日,ハノイで両軍のあいだに戦端が開かれた。ヴェトミン軍は当初劣勢であったが,北部山岳地帯にたてこもってゲリラ戦を展開しつつ徐々に態勢を整え,やがて戦争の主導権を握っていくようになる。

 この間,1949年に成立した中華人民共和国は1950年1月いち早く民主共和国を承認(同月ソ連も承認)し,ヴェトミンは中越国境越しに軍事的支援を受けられるようになり,このことが戦況の転換に大きな役割を果たした。他方,同じ1949年フランスがバオ=ダイを首班とするヴェトナム国をサイゴンに樹立するや,翌1950年2月には米・英がこれを承認。アメリカは大規模な対仏軍事援助の開始やバオ=ダイ・カンボジア・ラオスとのあいだに軍事援助協定を締結するなど,しだいにこの戦争の主役として登場するようになる。第2次インドシナ戦争を特徴づける東西の代理戦争としての性格は,すでにこの時期にもち込まれていたといえよう。

 しかし,フランス軍にとって北部での戦況は年を追うに従って絶望的となり,1954年5月要衝ディエンビエンフーが陥落するに及んでフランスも政治的解決を求める姿勢に変わっていく。そしてジュネーブ会議が本格的討議を開始し,同年7月21日ジュネーブ協定が調印され休戦が実現した。

 同協定は,[1]北緯17度線を境とした両軍の徹退,[2]南北統一のための全国総選挙の実施などを謳っていた。だが,ヴェトミン側はこの17度線の分断を暫定的なものとしか認めなかったし,一方バオ=ダイを廃してヴェトナム共和国(南ヴェトナム)大統領に就任していた反共民族主義者ゴ=ディン=ジェムは1956年7月,〈北側が共産主義体制にあることが最大の障害である〉として,統一選挙を最終的に拒否した。こうしてジュネーヴ協定は一片の空文と化し,1957年には早くも共産主義者の指導する反政府暴動が南の各地で引きおこされるようになる。1960年12月,ジャングルのなかでNFLが結成され,ここに第2次インドシナ戦争が開始されたのである。

【第2次インドシナ戦争】NFLの戦闘要員である南ヴェトナム解放軍は,1965年には15万の多数を数えるにいたり,サイゴン政権は危殆に頻した。NFL勢力のこのような急速な伸長の背景として,次の諸点を指摘できよう。すなわち,[1]ジェム政権の土地改革の失敗により多数農民の離反を招いたこと,[2]カソリック教徒ジェムの文化政策が多数仏教徒の反発を買ったこと,[3]1963年11月クーデタによるジェム暗殺後2年たらずのあいだに9回も内閣が交替する政情不安が続いたこと,[4]1965年6月クーデタによるグエン=バン=ティエウ,グエン=カオ=キ体制成立後も,ジェム政権顔負けの強圧政治を続けたため,多くの勢力をNFL側に追いやってしまったこと,などである。

 サイゴン政権の危急を救うため,ジョンソン米大統領は直接介入を決意し,1965年2月米軍による北爆の開始,3月ダナンヘの海兵隊上陸を敢行する。これに対し,北ヴェトナムも正規軍の南への“侵透”をもって応え,ここに内戦は米国対北ヴェトナム(さらにその背後の中・ソ)との全面対決の様相を呈してくる。双方の兵力は,ある推計によれば米軍51万,南政府軍60万,その他参戦国軍5万,対する北側は北正規軍5万,解放軍23万に達したといわれる。戦争はヴェトナム全土を荒廃させたが,米軍の圧倒的火力をもってしても北の戦意をくじくことはできなかった。北側は1968年2月の大規模攻勢(テト攻勢)により,いぜんとして強固な軍事的実力を備えていることを示したのである。

 テト攻勢によって,事態の軍事的解決の困難さを認識したジョンソンは,戦争の米経済に与える負担をも配慮して,米-ハノイ間の対話を提起し,1968年3月以降パリ和平会談が開かれるようになり,ほどなく北爆も停止された。

 その後ジョンソンのあとを襲ったニクソン米大統領は,米軍の段階的撒退や大規模な援助による南政府軍の強化など,戦争のヴェトナム化を図る一方,ホー=チミン=ルートの切断を狙ったラオス,カンボジアへの戦闘の拡大,未曽有の規模の北爆の再開で北に圧力を加えながら,パリ会談を有利に運ぼうとした。結局1973年1月パリ和平協定が4当事者(米・南・北ヴェトナム・臨時革命政府)のあいだで調印され,同年3月までに米軍は最終的に撤退した。

 しかし協定は,米軍撒退の条件はつくり出したが,南北の軍事対立の構図を解消したものではなかった。サイゴン政権は,すでに同年秋にはメコン=デルタの共産主義者掃討作戦を開始したし,北側指導層も翌1974年末には,軍事力による南の最終的“解放”の方針を決定した。1975年春,北正規軍と解放軍は潜んでいたジャングルから姿を現し,3月にはバンメトート・フエ・ダナンを,4月にはダラト・スアンロク・ビエンホア・ヴンタオ等々の諸都市をまたたく間に攻略。4月30日にはついにサイゴン市内に突入した。その直前に辞任,亡命したティエウに替わって大統領となっていたズオン=ヴァン=ミン将軍は無条件降伏し,ここに第2次インドシナ戦争は終結した。

 この結果,南北ヴェトナムはヴェトナム共産党の支配するヴェトナム社会主義共和国として統一され,東側陣営に完全に組み入れられた。けれども,このことはインドシナにおける新たな悲劇の始まりでもあった。中ソ対立が激化するなかで,ソ連寄りの立場を強めたヴェトナムと中国との関係は著しく悪化し,中国系や都市在住ヴェトナム人を中心に50万を超える難民の発生,ヴェトナム軍のカンボジア侵攻,中越国境戦争などを招く背景となったからである。