●インド国民会議派 インドこくみんかいぎは
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現代インドの最も長い歴史をもつ有力な政党。同党は通常,会議派と略称されている。そして,運動と組織の面からして,大まかに3期に分けて特質をとらえることができる。【第1期】1885〜1919年創立から民族独立運動の中心となる時期。会議派は1885年12月に西部インドの商工都市ボンベイで創立大会を開いた。当初,インド人の著名人とイギリス人の有志からなるサロン的な色彩が強かったが,インド側の利益擁護を正面から掲げている点で,イギリスの帝国主義支配への批判の役割をもっていた。19世紀末,帝国主義支配が強化されるなかで,会議派に依拠する政治家のあいだで民族派と側近派の2派が誕生した。前者の代表がロークマーンヤ=ティラクであり,後者の代表がG.K.ゴーカレーであった。前者が,イギリスとの権力闘争を通じてインドの独立を掲げたのに対して,後者は,社会改革に行動の重点を置き,イギリスとの協調を通してインドの発展を期するところに相違があった。両派の対立は,ベンガル分割反対運動(1905〜08)で表面化した。かの4大決議,つまり英貨ボイコット,スワデーシー(国産品愛用)・スワラージ(独立)と民族教育が採択されたのは,1906年の会議派大会においてであったが,この採択も民族派の立場と議長ダーダーバーイー=ナオロージーの立場が一致したからであった。民族派に対するイギリス側の弾圧は苛烈をきわめ,会議派は側近派の支配するところとなった。
【第2期】1919〜47 会議派が大衆政党に転じ,独立を確保するにいたる時期。この時期は人によっては,インド民族運動のガンディー的段階と呼んでいる。この時期の会議派の最大の特徴は,会議派が地方の下部組織を確立しつつ大衆政党に成長した点にある。しかも,その先頭には西部インドのグジャラート地方出身のマハトマー=ガンディーが立った。同時に,北インド出身のジャワーハルラール=ネールも有力指導者としてガンディーとともに独立運動に参加することになった。かのガンディーが,第一次世界大戦直後と世界恐慌直後の2回にわたって非暴力的抵抗連動と呼ばれる反英大衆運動を提起したのは,あまりにもよく知られた事実である。第二次世界大戦期の1942年8月に,会議派はインド退去要求運動を提起し,イギリスのインドからの退去を要求するが,運動は不発に終わった。しかも,1945年初めまで,会議派は非合法化されてしまった。この時期,会議派とインド資本との結びつきも強化された。とくにビルラー資本との結合は強く,会議派のインド独立のための推進母体としての機能も,インド資本の要求するところと完全に一致していたのある。こうした状況に対応して,会議派が労働運動や貧雇農層を中心とする農民運動とのあいだの乖離現象を深めていったのも確かである。とくにガンディーの場合,一方で,インド民衆の結集を説きながら,労働者や貧雇農層の自らの結集には非暴力の立場から否定的な態度をとっていた。労働運動や農民運動には無関心,もしくは反対の態度をとった。
【第3期】1947〜 会議派の与党時代。1947年8月,インドはついに独立を達成するが,それに先行する中間政府の段階も含めて,会議派はネールの指導のもとで,1970年代後半の数年間を除いて切れ目なく政権の座にある。会議派は与党化して,連邦政府と州政府の双方で支配的な影響力を発揮するが,第二次世界大戦後のアジア諸国の場合と同様に社会主義建設を最大の課題にしている。1955年には,同党は「社会主義型社会」の建設スローガンを採択している。しかし,会議派は一定の工業化には成功しつつも土地改革は不徹底であり,インド全体を包む貧困問題を解決する方途を見出してはいない。1964年に理想主義政治家ネールを失ったのち,1966年にはその娘インディラ=ガンディー首相が実現するが,その強権政治はインド民主主義を危機に陥れた。非常事態宣言(1975〜77)はその最たるものである。ガンディー首相はその後,一時野に下るが,1980年には政界復帰し,1984年にシク教徒の凶弾に倒れるまで,強権政治を継続した。このあいだ,会議派は組織的にもイデオロギー的にも衰退の一途をたどるが,インド全土にわたる全国政党の面で,強力なインド財界の支援を得て,からくも現状維持のための体面を保つ形をとっている。その意味では,1985年に創立100年を迎える同党は,きわめて深刻な正念場に立たされているといえよう。
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