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●インド=イスラーム文化 インド=イスラームぶんか

アジア インド AD 

 外来文化であるイスラーム文化の諸要素と,インド在来の諸文化−ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教・その他地方の土着文化−の諸要素とが混交・融合して形成されたインド独自の文化の総称。

【形成過程】ガズナ・ゴール朝に始まるデリー=サルタナット(デリー=スルタン朝)の時代に主として建築の分野で開花し,さらに300年に及ぶムガル帝国の支配を通じてトルコ・ペルシア・アラブのイスラーム諸文化を吸収し,またそれらを変容しつつ文学・芸術・宗教・思想などさまざまの分野で熟成した。南インドではマラバール沿岸地方のようにデリー=サルタナット成立以前からアラビア海を渡ってやってきたイスラーム商人の影響を受けることがあった。インド=イスラーム文化は必ずしも宮廷芸術や一部の貴族文化としてのみ発展したのではなく,同時に大衆のなかにもさまざまな形をとって浸透し,今日にいたるまで続いている。

【建築】インド=イスラーム両様式の折衷は初期においては意図せずつくり出された。その典型例はデリー南郊に残るクトゥブ=ミナールである。この塔は奴隷王朝の初代スルタン,クトゥブッディーン=アイバクと第3代イレトゥミシュによって建設され,イスラーム建築の様式美を誇る。しかし,その下に建てられたインド最古のモスクの内部にはヒンドゥー的彫像をもった石柱が並ぶ。これは近くのヒンドゥー寺院を壊し,その一部をモスクの築造にあてたためであり,期せずしてイスラーム・ヒンドゥーの混交様式が形成された。しかし,ムガル帝国の諸王はむしろ積極的に仏教・ジャイナ教・ヒンドゥー教の建築様式を取り入れ,やがてヒンドゥー・イスラームそれぞれの伝統様式から,ともにかけはなれた独自の融合形態が生み出された。たとえばイスラーム建築に特有なアーチとドームはヒンドゥー建築に接木され,インドの伝統的モティーフである蓮花文がイスラーム伝来のアラベスクや文字模様などの装飾モティーフとともに用いられるようになった。ビハール州シャーハーバード県に建てられたシェル=シャーの廟は両様式の融合がみごとにデザインに結実した例である。アクバルによってアグラ郊外に建てられた城砦都市ファテプル・シクリの建物群は16世紀後半のインド=イスラーム様式の典型とみられており,たとえば5層から成るピラミッド状の宮殿パンチ=マハールはインド仏教のヴィハールの様式を取り入れている。またシカンダールのアクバル廟にみられるインド風の様式も,やはり仏教のヴィハーラと,おそらくはインドシナ半島のクメール建築様式から刺激を受けてつくられるものと考えられている。こうした建築にはイスラームの支配者に雇われたインド人の大工・石工・職人たちが実際に従事し,彼らがイスラーム・ヒンドゥー両様式に修正を加えつつ伝えていったのである。

【言語・文学】ヒンディー語ウルドゥー語はイスラーム諸王朝の支配期に普及していった言語である。ヒンディー語は7世紀から10世紀のあいだに形成されたと考えられるが,デリー周辺など北インドの一部地域でのみ話されていたにすぎない。しかし,13世紀ごろにはラージプートの宮廷で吟遊詩人の誦う詩とともに発達した。14世紀のペルシア人の宮廷詩人アミール=ホスローはヒンドゥーの詩にペルシアの詩のスタイルを融合させ,新しい詩の形成をつくった。ヒンディー語は宮廷内にとどまらず,広く民衆のことばとしても広まった。イスラームのスーフィーたちは北インドの各地で布教したが,ペルシア語では通じないので,ヒンドゥー語によって民衆に語り聞かせた。また,カビールナーナクなどのバクティー運動の指導者たちもヒンディー語を用いて説法したため,より広い地域の人々に親しまれた。ウルドゥ語はヒンディー語のシンタックスにペルシア語・アラビア語の語彙が加わったことばである。このことばは本来「陣営」を意味し,ムスリムの軍で主として使われていた。しかし13〜14世紀には宮廷でも用いられ,やがてサルタナットの共通語となった。15世紀以降にはイスラームの支配が南インドに拡大するとともにムスリムの官吏や軍人によってウルドゥー語が南部にも広まっていった。アクバルは宮廷文学の興隆に力を入れ,ムスリム・ヒンドゥーの詩人・文学者を保護した。サンスクリット語などの言語で書かれた古典のペルシア語への翻訳もさかんであり,ムスリムの学者たちによつて『マハーバーラタ』の数章がペルシア語に翻訳され『ラズム=ナーマ』という名で出された。また,バダーウニーは4年の歳月をかけて『ラーマーヤナ』のペルシア語訳を完成させ,ハジ=イブラーヒーム=サルヒンディーは『アタルヴァ=ヴェーダ』のペルシア語訳を行った。シャー=ジャハーンの子ダーラー=シコーの宮廷にはアラビア語・ペルシア語・サンスクリット語に通じた学者がおり,ウパニシャッドやバガヴァット・ギータなどインドの哲学をペルシア語に訳そうとした。そのほか,地方文学にもペルシア文学の影響は強く及んでおり,とりわけベンガル詩はペルシアの詩のモティーフを色濃く保持している。

【絵画・工芸・音楽】写本挿絵としての細密画にもペルシアの影響がみられた。アラビア商人がインドにもたらした紙はジャイナ教の写本に大きな変革をおこした。つまり,従来使われていたしゅろの葉に代わって,紙に挿絵が描かれるようになった。そのため描写される空間は広がり,人物・風景ともにのびのびと描かれた。また,トルコ人のもたらした細密画の影響を受けて,インド人画家はこれまでの赤レンガ色や青色の単調な色彩から多彩で微妙な色あいを使うようになった。精巧な金細工・ほうろう加工の石細工もイスラーム支配期にトルコ人やペルシア人によってもたらされ,インドにおいても大いに発展した。織物や刺しゆうについては,ペシュミナなどと呼ばれるカシミールの刺しゆうショールや高級モスリンをもたらしたのはムスリムであり,アクバルの時代にはアブラマラホールで生産された。うわ薬を使ったつぼの製造技術もイランから取り入れられたものである。今日北インドのクラシック音楽として親しまれている音楽にもイスラームの宮廷音楽やスーフィーたちが誦った音楽の影響がみられる。楽器スィタールはアミール=ホスローが紹介したものといわれている。

【思想・宗教】ムガル時代にはイスラーム教・ヒンドゥー教の両宗教のあいだに民衆宗教運動として相互の融合が進んだ。イスラーム教に由来するスーフィーイズムとヒンドゥー教の異端であるバクティとのあいだには本来大きな差異があった。すなわち,前者はアッラーを,後者はヒンドゥーの多神を崇拝する。しかし,民間宗教としての両者には根本的な教理と実践の面で共通点がみられた。第一に両者ともに神への絶対的帰依を説き,信と愛とを強調した。第二に神秘主義的傾向を示していた。第三に神の前での絶対平等を主張し,カーストや男女といった社会的・身分的差別を否定した。第四にイスラーム・ヒンドゥー両教の正統的組織が固持している複雑な教義・儀礼を否定し,それ故異端教団とみなされた,ことなどである。これらの異端的民衆宗教運動は,とりわけ都市・農村の下層カースト層に受け入れられ広まっていった。こうした民間信仰のなかからイスラーム・ヒンドゥー教を融合した教義がつくられた。14世紀末ヒンドウーのバラモンの未亡人の子として生まれたカビールは生涯織物師としてヴァラーナシーに住んだが,バクティの影響を受けてのち,ヒンドゥー・イスラームを超えた普遍的な神の教えを民衆に広めた。15世紀後半から16世紀にかけて活躍したナーナクスーフィーの影響を受けたがのちにカビールからも大いに教化され,やがてヒンドゥー・イスラームに共通する絶対なる神の愛を説き,その教えはのちにシク教の原理となった。

〔参考文献〕『世界の美術81 イスラーム美術I』週刊朝日百科,1979,朝日新聞社

ロミラ=ターパル,辛島・小西・山崎共訳『インド史』2,1972,みすず書房

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