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●インド

アジア インド AD 

 インディア(India)の名はサンスクリット語のシンドウ(Sindhu)に由来する。シンドウとは本来は河,特にインダス川を意味し,のちにインダス川流域さらにインド全体をさすようになった。現在使用されているシンド地方はインダス川下流域をさす。日本名のインドは唐代の玄奘三蔵が原語の発音にしたがって「印度」としたものを日本流にインドと読んだものである。インドではバーラトという。南アジア最大の国。面積3,288.8万平方km,人口9億1,857万人(1996)。面積は世界の24%をしめて第7位,日本の約8.7倍。中国につぐ第2位の大国である。首都デリー。インドはその広さ,異民族の絶えざる進入の歴史などが影響して,地域的差異の大きい,しかも複雑な国である。このことからインドを表す言葉としてしばしば多様性があげられる。一方で,これらの複雑な要素が絡み含い,融合した独特の統一性をもつともいわれる。

【歴史】インド地方はモヘンジョ=ダロハラッパー(現パキスタン領)の両域を中心とする古代文明発祥の地として広くその名を知られるが,それよりもはるか50万年以上も前からきわめて発達した前期旧石器文化が展開されていたといわれている。前1500年〜前600年ごろ,西方からアーリア人が進入を始め,先住民を征服しながらパンジャーブ地方・ガンジス川流域へと生活圏を拡大しつつ農耕社会を形成していった。アーリア人は優位な立場にはあったものの完全に先住民を追い払う形はとらず,人種的・文化的に融け合いながら新しい社会をつくりあげた。ここでは祭式が重要性をもち,司祭の権威が高まるにつれて排他的となり,それはしだいに身分制度へと発展した。ヴァルナ(種姓)制度の始まりである(15世紀ポルトガル人が自国語でヴァルナに対してカスタ(階級)という語をあてたことにより“カースト”が一般的に使用されるようになった)。紀元前7世紀ごろには多数の部族社会が成長していたが,そのうちの4大国は強力な組織をもち,国家としての形を整えながら領土を拡大していった。最大の国マガダ国のマウルヤ王朝第3代のアショーカ王(前273〜前232ごろ)はインド亜大陸のほぼ全域を統一し,マウリヤ帝国を築いた。アショーカ王の死後ほどなく帝国は分裂したが,この間亜大陸内部の各地は文化的・経済的に大きく発展した。4世紀におこったグプタ朝(320〜550)のころより封建社会が形成されるようになり,グプタ朝の崩壊後領土の拡大をめぐって争奪戦をくり返しながら各地に割拠した諸王朝も土地を媒体とした完全な主従関係をつくりあげた。この時期は政治・経済・文化の各分野で,その地方独自の発展がみられた時期である。一方,西方ではイスラーム勢力の進入がたびたびくり返され,11世紀以降のトルコ系イスラーム勢力によってその進入は本格化した。13世紀に入るとデリーにインド史上初めてのイスラーム政権が樹立され,その勢力はしだいに拡大されていった。16世紀前半におこったムガール帝国はさらに勢力を拡大し,第3代のアクバル帝から第6代のアウラングゼーブ帝の150年間(1556〜1707)は最も繁栄した時期である。今もインド各地に壮大で華麗な当時のイスラーム建築が残っている。一方1498年ヴァスコ=ダ=ガマがインド航路を発見して以来ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスがつぎつぎと到来し,ヨーロッパ人による進入も始まった。1857〜58年のセポイの反乱(反英独立戦争)以後はイギリスの直轄植民地となり,1947年の独立までの約1世紀間はインドがイギリスによる植民地支配に最も苦しんだ時期である。支配の必要上とり入れられた交通網・地方行政制度・教育制度・言語などは今もインド社会に大きく影響を与えている。1947年,非暴力・不服従のガンディーを中心とする強力な独立運動の結果,念願の独立を果たした。独立の際イスラーム教徒の多い地方はパキスタンとして東端(現バングラデシュ),西端に分離独立した。

【政治】1947年イギリスの植民地から解放されたインドは新しい出発を始めた。政治も1950年1月26日発布された世界最長(395条)の新憲法にもとづき自らの手で行われるようになった。新たに大統領が元首とされ,その下に首相以下各大臣で構成される閣僚会議が置かれ行政権を握った。上下の2院からなる国会も構成された。国会では下院の力が大きく,上院議員が州議会の議員による選挙で選ばれたものと大統領の任命によるものであるのに対し,下院議員は国民の直接選挙による議員からなっている。1983年の下院の主な政党の勢力分野は,国民会議派354,インド共産党36,ローク=ダル25,ジャナタ党21,ドラビダ進歩連盟15,その他で,全議席544のなんと65%までを与党の会議派が占めている。中央政府は国全体にかかわる事柄についての行政権をもつのみならず,州政府の政策に対しても任命州知事を派遣し,自治を認める反面,強い権限ももっている。会議派を率いたネルーその娘インディラ=ガンディーは独立後のインドの政治の中心人物であるといえる。ネルーは非同盟中立主義の立場をとり,アジア=アフリカ諸国との友好を重視して非同盟諸国会議を結成し,第三世界のリーダーとして活躍した。1966年首相の座についたガンディーは思いきった社会改革をおし進め,かなりソ連寄りの社会主義的な政策をとった。しかし西側諸国に対しても閉鎖的ではない。

【自然】地形からみて,インドは大きく三つに分けることができる。北部は世界の最高峰を含むヒマラヤ山脈地帯で,屏風を立てたような形で北の境をなしている。世界の山地形成の歴史では新しい部類に入り,高く起伏の激しい山脈である。大ヒマラヤとよばれる最も高い部分は平均高度6,100mで年中雪に覆われている。その南に小ヒマラヤ,さらに南にシワリク丘陵が東西にのびて平原へと続く。シワリク丘陵は1,200m前後で亜熱帯林の繁る森林が大部分である。この山脈の南に広がる大平原がヒンドスタン平原で東西2,400km・南北240〜320kmの広大なものである。ヒマラヤの山々から流れ下るガンジス川とそれに合流する多くの支流で潤され,インド最大の農業地域となっている。見渡す限りの農地を背景に緑に包まれた農村集落があちこちに点在し,交通に恵まれた地点には人口が集中して都市が形成されている。インド6.8億の人口の半数近くがここに分布している。とくにガンジス川下流域の大デルタには多くの都市が集中し,インドの東の玄関といわれるカルカッタはその中心である。平原の大部分はこのように河川に潤され,恵まれているが,パキスタンに近い西の部分は降水量の少ない乾燥したタール砂漠である。平原の南は全体がテーブル状になった高原でデカン高原と呼ばれている。西端と東端の海岸に平行した部分には東ガーツ山脈西ガーツ山脈がある。高原部は降水に恵まれないためと台地をなすためとで水の便が悪く,農業には恵まれない地域が大部分である。集落もまばらで,ある所は岩のごろごろする裸地であり,ある所は樹林のまばらな草原である。農業はおもに東のベンガル湾に流れ出すマハナジ・ゴダバリ・クリシナ(キストナ)などの各河川の流域や沿岸の低地で行われ,人口もこのような地域に集中する。インドの気候は気候区でみると熱帯が最も広く,西部で乾燥帯,北部のヒンドスタン平原で温帯となっているように,大国であること,地形が複雑であることなどから地域により大きな差異がある。西のタール砂漠では暑熱季(3〜5月)の暑い日の日中はしばしば55℃にもなるが,逆にカシミール地方のある所では冬の最低気温が−45℃にもなる。降水量についても東部のチェラブンジは世界の最多雨地となっているほどで年降水量10,800mmを記録するかと思えば,タール砂漠では100mm前後である。このように地域的にみるとインド各地で大きな気候的差異があるが,季節的にみるとモンスーンの影響を受けるということから,インドの大部分の地域ではその変化に共通したリズムがある。12〜2月は北東モンスーンが全インドを覆い冷涼季となる。晴天が続き,降水量も少なく低湿度の涼しい快適な季節である。3〜5月は暑熱季である。3月から気温は急激に上昇をはじめ,デカン高原南部では3月というのに最高気温は38℃にもなる。北部の平原では5月の最高気温が45℃を上まわることもある。気温の上昇に伴って気圧は低下し,広い低圧帯がつくられる。これは6月にもなると南東貿易風をひきつけるほどの強さになる。この貿易風はインドに到達するまでに湿気をたっぷり含み,南西モンスーンに変わる。この風とともに雨季が始まり9月ごろまで続く。10月にもなるとこのモンスーンもすっかり後退し,晴天が多くなって気温もやや上昇する。しかし下旬になると再び低下し始め,さわやかさを増してくる。ベンガル湾ではこの時季にしばしばサイクロンに発達する強い低気圧が発生し,東部の沿岸部に大きな被害を与える。

【農業】就業者の7割が農業に従事するという点でインドは農業国といえる。インドの農業は自給的性格が強く,耕地の4分の3が食料用の農作物を栽培しているにもかかわらず,需要を完全に満足させてはいない。農業のほとんどを人手に頼り,栽培方法も未熟なうえに入る。しかし独立後は,農業に対する近代化,さまざまな改革当りの生産量は世界でも低い部類に入る。しかし独立後は,農業に対する近代化,さまざまな改革に着手し,増産の努力をしている。1960年代の後半からは特に意欲的な取り組みをみせ,北西部のパンジャブ州では2〜3倍の増収があったといわれている。この一部で成功した爆発的な農業発達は「緑の革命」と呼ばれ,インドの各地や発展途上の国々の目標となった。米・小麦・雑穀(キビ類)などの穀類のうち米が5,350万トン(1981/82年)で4割,小麦が3,780万トンで2割を占める。米は主としてガンジス川の中・下流域・沿岸部のデルタ地帯で栽培される。ヒマラヤ山脈の山麗の段丘や谷の水田もみごとである。小麦は南部を除きほぼ全土で栽培されるが,北インドがその主産地で,パンジャブ州・ハルヤナ州・ウッタルプラデシ州では最も重要な農産物である。

【鉱工業】インドは長い伝統のある優れた工業技術をもつ国で,産業革命前は世界一の織物の国であった。金属・木・石・象牙・土などを利用した優れた手工業品も親から子,子から孫へと確実に伝えられた高い技術の伝統工芸品である。織物のほかに農産物加工の工業として製糖・油脂・製粉などの食料品工業も盛んで,その一部は在来工業の形で古くから行われていたものである。独立後は重化学工業にも重点が置かれるようになり,著しい進展をみせている。とくに金属・機械・化学工業など品質・量ともに著しく向上した。たとえば,1950/51年と1981/82年のあいだの生産量の伸びについてみると,綿布2.2倍・綿糸2.4倍・砂糖7.6倍・紅茶2.0倍であるのに対し,アルミニウム50倍,自動車10倍,燐酸肥料100倍,ラジオ20倍である。重化学工業の発展は公企業,財閥系−外資系私企業などの巨大企業によるもので,インド各地にこのような大資本に支えられた大規模工場がある。

 重化学工業の発展は比較的恵まれた鉱産資源によるところが大である。インドの鉄鉱石は良質の赤鉄鉱・磁鉄鉱で世界有数の埋蔵量をもつ。ビハール州・オリッサ州・マドヤプラデシ州などデカン高原北東部に多い。この附近はインドの新興工業地帯となっている。石炭はあまり良質のものとはいえないが,鉄鉱石の産出地に近いビハール州・西ベンガル州に多い。特に両州にまたがるダモダル川流域に集中する。石油は主として北東部のアッサム州で採掘されているが,その量は多いとはいえない。近年ボンベイ沖合115kmにボンベイ=ハイ油田がみつかり,将来が有望視されている。需要量の3分の1しか自給できず大幅に中近東からの輸入に頼っているが,これはこの国の輸入総額の3分の1以上を占める巨大な額である。ほかにボーキサイト・雲母などもこの国の誇る鉱産資源である。

【言語と民族】人口の多くはガンジス川流域のヒンドスタン平原や沿岸部に集まり,人口密度300人/平方km(1981年)を超える6州の分布をみるといづれもこの地域で,とくにガンジス川流域の4州すなわち西ベンガル州・ビハール州・ウッタルプラデシ州・パンジャブ州のみでインド22州9中央政府直轄地の人口の37%(面積は13%)を占めている。ところで人口分布をみる際にとくに注意したいことだが,インドほど面積を無視して人口規模のみで州の人口を比較してはならない国はない。なぜなら州間の面積の差がきわめて大きく,たとえば最大の州マドヤプラデシ州では実に,44.4万平方kmで日本の1.2倍もの広さがあるのに対して,最少のシャキム州ではわずか0.7万平方kmしなかい。これはインドの州の構成が言語を基本に構成されているからである。しかし一つの州に一つの言語が収まることは難しく,多くの州で複数の言語が使用されているのが現実である。できる限り摩擦の少ないようにまとめた形が現在の22州9中央政府直轄地である。インドでは845の言語のほかに方言が使用されているが,最もよく使用される言語はヒンディー・マラティー・ベンガリー・テルグ・タミル・カンナダ・グジャラティー・オリヤ・マラヤーラム・アッサミー・パンジャビー・ウルドゥー・カーシミーリー・シンディー・サンスクリットなどで,これらは憲法にその重要性がうたわれ国語として尊重されている。現行憲法のもとではヒンディー語と英語が公用語として指定されている。国内はもちろん同州内で各種の言語が使用されることはインド発展の大きな障害となっている。“異なる”ということは大きい意味をもつ反面,しばしば対立を生み,政治的・経済的にも問題をおこしやすい。各地方から人口の集中するボンベイ・カルカッタなどの大都市では民族・言語による同一集団が地域的に固まって分布し,都市そのものが各地方の寄せ集めとなり,都市の総合的発展の足を鈍らせる原因にもなっている。共通の言語としてはかつてイギリスの植民地時代に使用された英語があるが,支配者と直接関係の少なかった地方の人,都市の貧しい人々のあいだにはこの言葉は生きていない。言語の複雑さは民族の複雑さを反映したものであるが,民族の分布はその進入の歴史と深く係わっている。アーリア人の進入路である北西部にはヨーロッパ人に似たアーリア系の顔立ちが,モンゴル・チべットの進入路である東部には日本人に似たモンゴル系の顔立ちが,そして南部にはもともとインドに住んでいたといわれる身長の低い,色もやや黒さを増したアフリカ人に似たドラヴィダ系の顔立ちが多くみられる。そのほかに,西部では11世紀ごろより徐々に進入し,のちに強大な帝国を築いたトルコ系イスラーム教徒の分布もみられる。植民地時代に支配の根拠地となったカルカッタ・ボンベイをはじめとする貿易港やプランテーションの行われた地域では,とくにイギリス人との混血でアングロ=インディアンと呼ばれる人々もいる。いかに言語・民族が複雑で違いが大きかろうとも,1国をなして共存し,発展をめざすものであるならば,この両者の違いで発生する問題の克服は大きな国民的課題である。

【宗教と社会】インド人は宗教的な国民であるといわれる。そこでインドの社会を考える要素としてまず宗教の重要性をあげることができる。国民の大多数である約76%がヒンドゥー教徒で,11%がイスラーム教徒である。インド・パキスタンの分離独立によってヒンドゥー教徒はインド側に,イスラーム教徒はパキスタン側に移住したこともあってインドのヒンドゥー教徒の比率は高くなった。ヒンドゥー教はインド=アーリアンのバラモン教を土台に,インドの土着信仰が加わったものである。その定義もいろいろであるが,インドの風俗・習慣・思想その他社会のさまざまな側面の総合体であるインドそのものであるとの考えもあるほど,ヒンドゥー教はインドの人々そのものと一体であり,日常生活の中に宗教的考え,祭祀が生きている。家庭は生活の場であり,宗教生活の単位である。各家庭・カースト・職業・地域の特殊性に応じて,朝夕の礼拝はもちろん,人の誕生から死に至るまでの通過儀礼などの宗教行事がその家に伝わる“家庭経”にしたがって行われる。各家に伝わる家庭経は時代とともに変化したり,すたれたものも多いが,基本的には西暦200年ごろまでに完成した『マヌ法典』などの古典の教えにもとづいている。マヌ法典バラモン教の基本であるヴェーダ文献の補助的なものでヒンドゥー教徒のあいだで広く尊重されている文献の一つである。イスラーム教は7世紀の初め,アラビア半島の一商人であったムハンマドによって説かれた教えで,イスラームとはアラビア語で神への絶対的服従を意味する。ムスリム(信徒)は六つの信仰と五つの宗教的義務を果たすことが要求される。六つの信仰とは神・天使・啓典・預言者・来世・定命を表し,五つの義務つまり5行とは信仰告白・礼拝・救貧税・断食・巡礼をさしている。インドヘの伝来はすでに7世紀中ごろで,16世紀中ばより18世紀初めにかけて強力な勢力を誇ったムガール朝の時代にはとくに大きな影響を与えた。インド国内では多くの思想家により改革がくり返されたが,本質的にはインド総人口の11%を占めるムスリムは6信5行の信仰義務を守る努力をし,その教えを伝えてきた。カースト制度といえばインド,といわれるようにこれもまたインド社会を考える大きな要素である。カースト制度は大きく分けて4身分と一般的にいわれるが,現実の生活に作用しているのはその数3,000余といわれるサブカーストである。この制度では同一カースト内での同一子孫でない相手と結婚すること,ほかのカーストに属する者と飲食を共にしないこと,先祖伝来の職につくことなど一生を左右するほどの重大事はもちろん日常生活に関しても多くの禁忌事項がある。これらは近代化の波とともに,すなわちその波に触れやすい都市の人,豊かな人々のあいだでやや変わりつつあるもののまだかなり根強く,とくに農村部でははっきり生きている。合同家族制度も農村部ほど強くみられるインド社会の特色の一つである。

 この制度では息子たちは結婚して家庭を築いても親の家の家族であり,彼らの所得は家族全員の所得である。家族構成員の所得は家長たる人物が中心となって家族の話し合いのうえで消費する。所得の多いものが少ないもの・全くないものを助けることを当然とする。インドの大都市でも地方の恵まれた家族出身で,高い教育を身につけ安定した職についた人々が田舎の兄弟の子供をひきとり,その教育を引きうける例や,田舎の家族に収入の大半を送金する例を多くみかけるが,これもその制度の表れであろう。農村部では人口増加に伴いしだいに都市へ流出する傾向が強くなっているが,このように恵まれた家族は例外で,大半の農民は押し出された形で都市へ流入している。ただでさえ自然増加で増え続けている都市の人口はこれによりますます増える。しかも十分な教育も受けておらず,何の技術も資格もないために低い賃金の仕事につければいいほうで,ときには失業のまま親戚・同郷の人々のもとを頼ってくる場合が多く,経済的に不安定な層を形づくっている。このような人々は年々増えつづけ,都市のスラム化を促す結果となり大きな悩みの種となっている。農村・都市を問わず人口の質的向上をはかるために,インド政府は教育水準を高めることを大きな政治課題の一つとしている。国勢調査(1981年)によるとインドの識字率は36%ときわめて低く,農村部・女子はさらにそれを下まわっている。そのため政府は各地に小学校の建設を計画して就学率の上昇をめざし,中学校・高等学校・カレッジの増設を推進している。在籍していても学校には行けない子・教育施設の不備など間題はあるが,教育水準は確実に高くなりつつある。

【文化】インドの文化は多くが宗教と結びついて発展した。あるものは風俗・習慣として生活の中に伝えられている。みごとな形として残されているものに寺院・塔・宮殿などの建築物があるが,やや歴史の古い都市においては必ずといっていいほどそのいずれかに触れることができる。特にイスラーム教徒は建築物に力を入れ,多くの寺院・宮殿・廟墓を残した。アグラのタージ=マハルは17世紀の中ごろに完成したイスラーム建築を代表する廟墓であるが,白く輝く大理石の壮大な美しさは現代世界にも例をみないほどのみごとなものである。日本に関係の深い仏教美術の仏像・仏画アジャンタエローラの石窟寺院に数多くみることができる。高い塔をもち多くの彫刻を配したヒンドゥー教寺院も珍らしくない。哲学もインドの人々の生活の中に深く生かされているものであるが,その考えは国内にとどまらず世界の哲学界に大きな影響を与えている。インドではアーリア人の進入のころより人間の生きる道として哲学が熱心に追求され,『リグ=ヴェーダ』という優れた法典の完成をみている。その後仏教・イスラーム教などの影響を受けながらその思想は発展し,インドの人々の精神生活を支える柱となった。この国で生まれた仏教思想は日本をはじめ東アジア・東南アジアに広がり大きな影響を与えた。哲学に伴って文学の面でもすばらしいものがある。前述の『リグ=ヴェーダ』も詩の形で書かれた文学的にも価値の高いものであり,2大叙事詩『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』もインドを代表する作品である。

【日本との関係】仏教の故郷がインドであるということからもわかるように,日本とインドとの関係はきわめて古く,深いものである。538年の仏教の伝来以来,今日までの長きにわたって,その教えは日本人の日常の生活に浸透し,深く生きている。日印の直接的な関係は明治に入ってからで,主として綿花・鉄鉱石の輸入など経済的なつながりであった。鉄鉱石は今でもエビと並んでインドからの貴重な輸入品となっている。インドの輸入相手国としては日本は第4位,輸出相手国としては第3位で(1981/82),インドにとっては重要な貿易相手国である。最近,学術・文化の分野でも交流が深まるようになり,留学生の交換,学術調査団の派遣は珍しいことではなく,個人的な立場でもインド文化にあこがれた多くの人々がインドを訪れるようになった。

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