●インテリゲンツィア
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語源はラテン語のintelliGens(理解・洞察・精通したの意)。知識を身につけ,根底的に思考する人々の集団。1860年代にロシアの作家ボボルイキンがこのことばを用いてから普及し,英・仏語などにも入ったというが,ポーランドではすでに1845年にinteliGencjaということばで用いられている。ロシア=インテリゲンツィアは18世紀初めのピョートル大帝による急激な近代化政策により,西欧化した貴族のなかから生まれた。彼らは西欧的教養と生活様式を身につけ,圧倒的多数の民衆(ナロード)とかけ離れた半西欧人となり,自らと対比した民衆に対し良心の痛みを感じるにいたった。またフランス革命やナポレオンと戦った祖国戦争をも経験し,専制政治を農奴制のロシアの後進性に対し批判を強めるとともに,社会のなかで疎外感を味わった。ゆえに自らが属する貴族階級の利害否定・国家ないし政府からの離反・理想の追求・俗物根性否定・民衆との一体化の願望などが彼らの特徴となるが,それらすべてロシアと西欧,ナロードとインテリゲンツィアの関係という間題に包摂される。こうした事情は19世紀中ごろから雑階級人と呼ばれる知識を生かして生計を立てる人々が貴族に代わってインテリゲンツィアの中心となり,革命運動が盛り上がっても基本的に変わらない。インテリゲンツィアの出現は,18世紀末,著書『ペテルブルクからモスクワヘの旅』で農奴制を批判したラジーシチェフや,1825年に蜂起したデカブリストなどに始まる。デカブリストの乱を鎮圧し,秘密警察と検閲により専制を維持するニコライI世治下では,雑誌の誌面・大学やその周辺の青年たちのサークル・貴族のサロンなどで文学を通して政治・社会批評が展開された。ドイツ=ロマン主義の影響を受けた愛智会・サン=シモニズムを摂取したゲルツェンのサークル・シェリングやヘーゲルの哲学に熱中したスタンケーヴィチのサークルなどがそれである。彼らの多くはチャダーエフの『哲学書簡』(1836)を契機にスラヴ派(キレーエフスキー兄弟・ホシャコーフ・アクサーコフ兄弟・サマーリンたち)と西欧派(ゲルツェン・ベリンスキー・バクーニン・グラノフスキー・カヴェーリンたち)に分かれ,ロシアと西欧の問題を歴史哲学的に論じ合った。信仰・ロシアの農村共同体・西欧的な個人の概念を重要な鍵とするこの論争と,1848年フランスの2月革命敗北とを踏まえ,ゲルツェンはロシアの農村共同体と西欧的教養ある個人(貴族)を結びつけ,資本主義段階をとびこえ社会主義を実現するという“ロシア社会主義”の理論を提起した。彼の理論は農奴解放を中心とする“大改革”期に,雑階級出身のチェルヌイシェフスキーにより経済学的に確立された。また後者は小説『何をなすべきか』で“新しい人間”像を描き,ナロードニキと呼ばれる革命家に大きな影響を与えた。農村共同体と社会主義を結合しようとするナロードニキの革命運動はバクーニンによる農民蜂起の宣伝・資本主義的分業は人間の“全一性”を損うゆえに進歩でなく退歩だというミハイロフスキーや,インテリゲンツィアは民衆への負債を償えと説くラヴロフの理論に支えられており,そこには“悔い改めた貴族”の心理が見出される。1890年代以降,革命理論・運動にロシア=マルクス主義が登場し,ロシア資本主義の発達・歴史における個人の役割等の問題を巡りナロードニキ主義との論争が展開された。20世紀初めのロシアは政治面だけでなく文化面でも昂揚期(ロシア=ルネサンス)を迎え,文学や思想に加え演劇・絵画・音楽・バレーなどの分野で今日なお新しい“革命的”試みがなされたが,その成果の世界的拡大・伝播はロシア革命後インテリゲンツィアの亡命あるいは追放によることは否定できない。ロシア=インテリゲンツィアが提起した問題は,今日なお未解決のまま残されているといえよう。