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●院政 いんせい

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 天皇が譲位後も太上天皇(上皇)あるいは法皇として政務を決裁した事象をいう。その事例は奈良時代からみられるが,ふつうは,古代末期の白河・鳥羽・後白河の三上皇による百余年間の院政時代をさす。奈良時代,持統太上天皇は文武天皇の年少を理由として共同統治を行い,孝謙上皇も淳仁天皇に譲位後,常祀(つねのまつり)と小事(いささき)を天皇,国家の大事・賞罰は上皇が親裁することにした。平安時代にも嵯峨上皇が仁明天皇に,宇多上皇が醍醐天皇に対して,天皇幼少のために父帝として後見的任務についた。そのほかにも,太上天皇在世中は,天皇も臣として政(まつりごと)を摂らないという考えがあった。冷泉天皇以後の摂関政治の時代には院政が行われなかったが,後三条天皇は在位4年余で1072年(延久4)12月,白河天皇に譲位して,院庁を開き院司の任命をした。しかし,わずか5カ月ほどで崩御され,院政の開始を証する記録が乏しい。院政の形態が確立したのは白河上皇の時期である。上皇は1086年(応徳3)から堀河・鳥羽・崇徳の3代43年間院政を行った。続いて,鳥羽上皇は崇徳・近衛・後白河の3代27年間,後白河上皇は二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代34年間院政を行った。院政が開始されると,国政上の権力は上皇と天皇とに分轄され,同じ事柄についても,院宣(上皇の意を院司が出す奉書形式の文書)と宣旨(天皇の命を下す文書)が並行して出されることもあった。しかし実際には天皇が多く年少であったから,上皇の権力が強く国家の重要政務が院庁で行われ,朝廷は恒例臨時の儀式の府として位置づけられた。院庁には多数の優れた人材を集めて院司として,別当・執事・年預判官代主典代・蔵人・非蔵人・所衆・庁官・北面の武士等々が配置されていた。それぞれの院司は院政開始とともに定められたものではなく,しだいに整えられたようである。

 院政の法的性質について,太上天皇が保有する皇室の家長権にもとづいた統治権の一部分の留保として,統治を天皇と共同に行使しようとした政治の形式であるという説がある。一方,皇室家長権の存在を疑問として,院政は上皇が天皇の父という後見権を背景として私的地位を政治権力に結びつけ,天皇を形式的儀礼的存在として,自ら親政した公私混淆の特殊な政治形態とする説もある。院政が長期にわたって行われたときには,上皇が数人存在することもあり,先の上皇を本院とか一院,後の上皇を新院と呼んで区別した。院政が行われるようになった事由については,次のように諸説がある。[1]藤原氏による摂関政治とのさまざまな摩擦を生じた白河上皇が譲位後に,自身の意志のままに政治を行い,摂関勢力を抑えて皇権を伸張させようとする目的で開始されたとする説(『愚管抄』『今鏡』『大日本史』『本朝通鑑』・多数の歴史家),[2]自河天皇の譲位も院政を目的にしたものではなく,中宮の崩御,堀河天皇の皇位継承の決定などが天皇幼少であり摂関勢力が衰えていたために,上皇の決裁を必要とした偶然の結果とする説(和田英松他),[3]白河上皇が自己の子孫に皇位継承しこれを擁護しようとしたことを重視する説,[4]藤原氏の執政から天皇親政を念願した後三条天皇白河天皇に譲位して行く末を見守ろうとし院政を始めたものであり,上皇のための院政であるとする説(石井良助),[5]摂関時代以来,責族と関係の深い受領層のための政権であり,上皇近臣の付属物が院であるとする説(林屋辰三郎),[6]天皇が律令制下の最高の地位から,一人の巨大な荘園領主に転化するために,その支持者である下層の貴族や受領層を政治権力の新組織としたとする説(石母田正)などである。鎌倉時代にも院対院,院対天皇など対立反目から戦乱が続いたが,室町時代に朝廷権力の衰退とともに院政も実質を失って,後花園上皇以後行われなかった。

〔参考文献〕石井良助編『日本法制史』19 青林書院