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印刷 いんさつ

 原稿にしたがい版をつくり,インキをつけ,圧力を加えて版の画線部を,多量の紙または他の面に移す方法で,版式により凸版・平版・凹版の3種,ときには孔版を加えて4種とすることもある。凸版印刷は版の凸起している画線部にインキをつけ,紙などに押圧してこれを移す方法で,木版印刷や活版印刷などこれに該当する。平版印刷は版面に,凸版や凹版のように明らかな高低はなく,水と油の反発を利用して印刷する方法で,石版・オフセット印刷などがある。凹版印刷は版のへこんでいる画線部にインキを満たして印刷する方法で,極端にいえば,印刷されたインキは多少とも盛り上がった形となる。直刻凹版(ビュラン彫り・ドライポイント・メゾチント),食刻凹版(アクアチントエッチング),グラビアなどいずれもこの版式に属し,概して高級印刷と目せられる。

【木版印刷の発生と東漸】今日いうところの印刷術はいつごろ,どこで創始されたのか。仏教発生の地インドでは,早くから供養のため仏像印をつくり,これを織布の上に押捺して千体仏をつくったが,玄奘(げんじょう,602〜664)・王玄策・義浄(635〜713)らによって,仏教の中国移入とともに,この方法も伝えられ,いつか捺印式が手法を変え,刻印の仏像を下に置き,その上に墨を塗り紙をのせ,紙背からこすって摺仏をつくった。これらの点からインドの仏像印こそ,印刷術のルーツ(源流)と考えられぬこともない。明(みん)の胡応麟(1551〜1602,嘉靖30〜万暦30)の『少室山房筆叢』巻4に〈胡本(印刷)は隋代(581〜618)に始まり,唐代(618〜907)に行われ,五代(907〜960)に広まり,宋代(960〜1279)に精(くわ)し〉とあるが,どの程度の信ぴょう性があるか疑わしい。アメリカのトマス=F=カーター(1882〜1925)は『中国における印刷の発明と西漸』(1925)のなかで〈木版印刷のはじまった正確な年次はなぞに包まれている〉といい,〈木版印刷開始の年次を決定することの困難さは,技術の進歩がほとんど気づかれないほど,あまりにもゆるやかだったことによる。現存する最も古い木版印刷物は,770年(宝亀1)に日本で印行された「百万塔陀羅尼」(『無垢浄光陀羅尼』)である。1969年,韓国慶州仏国寺境内にある釈迦塔の塔頂部から,紙に印刷された『無垢浄光大陀羅尼経』が発見された。印刷物の大きさは幅6.5cm,長さ63cm,印行の年次ははっきりしないが,釈迦塔の建立が751年(天平勝宝3)より以前のものということであり,この陀羅尼もそのころの製作と推定され,それがまちがいなければ,世界最古の現存印刷物となる。もっとも,この印刷物は韓国で印行されたという確証はなく,中国で印刷され,韓国に将来したという考えもなくはない。最古の現存の印刷本は大英図書館(British LibrarY)蔵の868年(唐の咸通9)『金剛般若波羅密経』1巻である。これらの印刷物は高度に発展した産物であり,これより以前すでにある程度の木版印刷術に到達していたにちがいなく,想定される年次は,開元の治といわれる唐の最盛期をつくりだした,唐第6代の皇帝玄宗(在位712〜756)の治世であろう〉と述べている。ほぼ8世紀のはじめ,中国に発生した木版印刷術は,まもなく朝鮮をへてわが国に伝わり,奈良・平安・鎌倉・南北朝・室町・徳川時代(8〜19世紀)と千数百年のあいだ,書物製作の仕事は書写によるもののほか,断続的には朝鮮の銅活字,あるいは洋式活字(鉛鋳造活字),木活字印刷などによっても行われたが,開版の主流は木版(整版)印刷に占められていた。これらについては別項『本』(日本の部)で改めて述べることにする。

【木版印刷の西漸】木版印刷がヨーロッパで初めて行われたのは,いつごろ,どこでだろうか。おそらく独自のものではなく,多分に東洋の影響を受けたように思われる。古代ローマの著述家大プリニウス(23?〜79)は『自然誌』37巻のなかで,古代ローマ時代のエジブト捺染に言及しているが,東洋では捺染法が印仏に利用され,中国や日本では摺仏・摺経に転化したが,同様のことが近東・西欧でも考えられてよいはずなのに,なぜ行われなかったのか。一つには中国で発明された紙の移入の遅れたこともあるが,東洋と西洋の文化交流の仲介者だったアラブ人が,彼らの信ずるイスラーム教の宗教的理由から,長いあいだ,印刷の必要を認めなかったことに帰因するように思われる。1878〜79年エジプトのエル=ファイウム地方が発掘されたとき,前14世紀から14世紀に至るおよそ2,700年にわたり,10万点以上のパピルスパーチメント,紙の古文書が発見された。大部分はウィーンのオーストリア国立図書館のレイナー文庫に収蔵されてあるが,そのなかに50点ほど印刷したものが含まれている。印刷年代は950〜1350年ごろのものと推定され,印刷様式はまったく東洋式で,版木に墨を塗り,紙をのせ,ばれんでこするやり方で,内容は祈祷文,『コーラン』の1部,護符に類する宗教的なものである。どうしてこのような印刷がエジプトで行われたのか,これを説明する文献はなにも残っていない。現存する印刷物だけがその事実を示すにすぎない。1206年,蒙古のテムジン(鉄木眞)が部族を統一して皇帝になり,チンギス=ハン(成吉思汗)と称し,東南に兵を進めて満州・北シナ地方を侵し,西に転じて西部アジアからインダス川のほとりまで手中におさめ,一部はロシアに進んで領土を西にひろめた。そのころトゥルファン(吐魯蕃)は接収された文化の中心地となり,印刷都市だったことが,1902〜07年アルベルト=A=フォン=ルコク隊長の率いるドイツ西域探検隊の発掘品によってあきらかである。1231年蒙古軍がペルシアを占領し,イル=ハン国をつくり,タブリーズを首都としたが,たちまち東西交渉の中心地となった。当時イル=ハン国の宰相で歴史家でもあったラシード=ウッ=ディーン=ファズルッラー(1247?〜1318)は『綜合史』(1310〜11)のなかで,中国本土以外で印刷された紙幣と,中国の印刷について述べているが,1294年タブリーズで中国語とアラブ語で印刷された木版刷の紙幣が発行された。そのころイタリア生まれのマルコ=ポーロ(1254〜1324)もタブリーズに滞在していたといわれる。彼は元(げん)の世祖フビライに仕え,帰国後著述した『東方見聞録』で,中国の紙幣と骨牌(カルタ)のことにふれている。ラシードの紙幣印刷とマルコ=ポーロの紙幣とのあいだにどれほどの関連があったのか,さらにその後のヨーロッパの木版印刷,ひいてはヨハン=グーテンベルク(1400?〜68)の鉛鋳造活字発明との関連はどうなのかは後述するが,現在のところあまりはっきりしたことは分明しない。

【木版画『聖クリストファの図』(1423年)】現在マンチェスターのジョン=ライランズ文庫に所蔵されてある,1423年の刊記のある『聖クリスファの図』は,1769年ドイツの版画研究家ハイネケンが,スワビアの小村ブキザイム修道院で発見したもので,28.5cm×20.5cmの素朴な版画には,聖クリストファが幼児キリストを背に川を渡る図が描かれ,淡彩の着色が施され,図の下部にラテン語で〈聖クリストファのみ姿を拝した日には,決して不幸な死は訪れない,1423年〉と印刷されてあり,現在最古のヨーロッパの印刷物といわれているが,当時この種の版画にある年号は,必ずしも版刻の時を示すものではなく,むしろ原画となった肉筆絵画にあったものを,そのまま模刻する場合が多いので,にわかに信ずることはできないともいわれてる。いずれにしてもそのころになると,「聖母像」「聖クリストファ」「聖アントニウス」「聖セバスティアノの殉難」「十字架を負えるキリスト」「聖ドロテア」「聖アレキシス」「受胎告知」「マリアの死」「十字架上のキリスト」「キリストの復活」「昇天」など,聖書のなかの物語や聖徒の生涯からとった1枚物の聖像版画がつくられた。絵はきわめて粗雑で画線の部分だけ印刷し,あとから手で着彩するか,型紙(ステンシル)で彩色した。以上のような木版画と並行,あるいは少し遅れて,絵と文字とを1枚の版木に彫った印刷物を集めた木版本がドイツ・オランダ・フランダース地方に現れた。これらのことは別項『本』(世界の部)で改めて述べることにする。

活字版の発生】活字版の発明は紙や木版印刷と同様,中国をもって嚆矢とする。北宋の仁宗皇帝の慶暦年間(1041〜48),畢昇(ピィンシェ)が膠泥(こうでい)で素焼きの活字をつくったことが,北宋の翰林学士沈括(シェンクワ,1031〜95)著『夢渓筆談』巻18「技芸」の部に詳しく記されてある。〈薄きこと銭唇のごとし〉とあり,形は平たく,碁石に似たものではなかったかと想像される。世界最古の活字だが実用に適せず,広く用いられるに至らなかったようだ。朝鮮では高麗の1227年(高宗14)から10年間に銅鋳活字をつくり,崔允儀選『古今詳定礼文』28部を印行したと伝えられるが,現物があるわけではなく,にわかに信ずることはできない。しかし同朝の末期になると,鋳字印書を司る官署が設けられ,現にそのころ印行された本が現存するので,その事実を否定することはできない。『高麗史』百官志に〈恭譲王の4年(1392)書籍院を置き,字を鋳て書籍を印することをつかさどる令丞あり〉とある。この年は高麗朝の最後の年で,李朝の太祖(李成桂)の元年にあたる。この政変のため,せっかく計画された印刷界空前の壮挙も一頓挫を来してしまった。やがて李朝3代目の王太宗(恭定王)の1403年(永楽1)2月,内帑をもって南山のふもとに鋳字所を設け,銅活字数十万本を鋳造,鋳造の年の干支にちなみ“癸未字”と呼ばれた。朝鮮ではその後も「庚子字」「甲寅字」「丙辰字」「庚午字」「甲壬字」「乙亥字」「乙酉字」「辛卯字」「甲辰字」「乙巳字」「癸丑字」などの新鋳活字が次々と作製された。朝鮮でこのように活字版の発達したのは,歴代の国王が文事を奨励したためであるが,金属活字を用いたのは,朝鮮産の紙質の強靱だったことにもよる。朝鮮活字はおそらく木で活字をつくり,それを種字(たねじ)としそれで砂の鋳型をつくり,熔けた銅の地金を流し込んでつくったもので,2本の脚で支えられ,中はがらん洞になっていた。印刷は木盤にとかした膠(にかわ)類をおき,その上に活字を植付け,平らな板で上から押し,鋳字を平らに固着させ,その上に墨を塗り紙をのせ,ばれんでこすって印刷した。1972年5〜10月パリの国立図書館が,ユネスコ提唱の国際図書年(International Book Year)に協賛し,「本の歴史展」を開催したが,その折高麗の1377年(辛※注1※王3)興徳寺で鋳造された旨の刊記のある『白雲和尚抄録佛祖直指心體要節』巻下が,世界最古の現存金属活字本として初めて公開され話題をまいた。

【木活字版の発生】中国では畢昇の膠泥活字版発明後270年ほどへて,元(げん)の1314年(延祐1)王禎(ワンチェン)が木活字をつくり,自著『農書』22巻を印行したが,同書の付録として木活字印刷の工程のことが記述されている。それには木活字の彫刻法,コマの仕上げ法,回転式卓型活字ケースの使用法,活字の文選法,植字盤への植字法,組版による印刷法などが細説されてある。王禎活字印刷法にはいくたの創意工夫の跡がみられ,印刷史上画期的な発明というべきだが,なぜか一般的には利用されるに至らなかった。

活版印刷術の発明】15世紀のなかば,イタリアを中心として興隆したルネサンス(文芸復興)は,東ローマ帝国が滅び(1453),ヨーロッパ中世の暗黒時代からの解放と,近世文化への夜明けを意味するが,この時代に現れた火薬・羅針盤・活版印刷術は,ルネサンスの3大発明として,とくに時代を画するものといわれる。すなわち火薬は小銃や大砲への利用によって,騎士の戦術や封建貴族の城郭を無力なものにし,封建制度の没落を促した。羅針盤はその後に現れた精確な天体暦の作成と相まって,遠洋航海を可能にし,コロンブスのアメリカ大陸発見,バスコ=ダ=ガマのインド航路発見など,地理上の大発見にみちびいた。しかし,活版印刷術の発明が,人類文化の進展に尽した功績にくらべれば,到底およばない。すべての文化は印刷により,印刷物を通して伝えられ,普及され,知らされた。アメリカの著名な書誌学者ダグラス=C=マクマートリィは,その著『書物−−印刷と造本の物語』のなかで〈人類の文化史上,その重要さの点で印刷術の発明にまさる大きな出来事はない。人間のあらゆる分野にわたる仕事と経験は,“印刷”という媒介物を通して広く,高く,遠く,深くひろめられ,無知と邪教の抑圧から人類を解放するのに大いに役立った。印刷された言葉(新聞・雑誌・書籍)が人間の思想や行動に及ぼした影響力は,その後よきにつけ悪しきにつけ,世界の国ぐにの為政者が,人民の言論を調整するという名のもとに,新聞や出版にいろいろな制限を設け,抑圧したことでも明らかである〉と述べ,スタインベルクはその著『印刷術の500年』(1955)のなかで〈印刷の歴史は人類の歴史を構成するうえで,決して欠くことのできぬ一大要素である。印刷術は過去500年の間,思想を伝達する最も重要な方法として,人間のあらゆる活動の分野にわたって浸透し,これにかかわりを持ってきた。政治・経済・宗教・教育・社会・思想・哲学・文学・芸術・科学などがあらゆる分野において,果して印刷術の力をかりることなしに,十分な活動をし成果をおさめることができたであろうか。印刷術は産業それ自体としても,他の産業の発展に大いに寄与貢献した。その技術的発達の過程において,相関連する産業の進歩を助長したのは非常なものである〉と述べている。

【ヨハネス=クーテンベルク】今後映画やテレビ,コンピュータの発達につれて,情報社会における印刷の将来がどう変わるかしらないが,少なくとも今日まで活版印刷術が,人類の文化の発展に偉大な影響を与え,貢献してきたことはかくれもなき事実である。その影響が大きければ大きいほど,いつ,どこで,だれが発明したかが興味あり,重要な問題になってくる。今日ではドイツ,マインツ生まれのヨハネス=グーテンベルク(1400?〜68)を発明者とするのにだれも異存をいう者はない。しかし初めからそう決っていたわけではない。古代ギリシアの詩人ホメロスは7つの郷里をもつという。彼の盛名は7つの場所を郷里と名乗らせた。活版術の場合もマインツ・ストラスブルク・ハーレム・ユトレスト・アビニヨン・フェルトルなど7つの都市が長い間,活版印刷術誕生の地を主張して譲らなかった。しかしその後の研究により,マインツ・ハーレムの2市のほかは,問題とするに足らぬことが明らかにされた。ロバート=A=ペッディはその著『印刷史略』(1919)のなかで,印刷の発明について〈オランダ(ハーレム)は本(活字で印刷した)をもっているが,これを記するに足る文書をもたず,フランス(アビニヨン)は文書だけで本をもたず,イタリア(フェルトル)は本も文書ももたず,ドイツ(マインツ)は本と文書と二つながらもつ〉と述べている。グーテンベルクは1437年前後から,写本に代わる書物製作の手段として,活字による印刷を思い立ち,鉛活字鋳造の研究に従い,ブドウしぼり機を雛型に木製の印刷機を製作,1445年ごろ鋳造活字による活版印刷を一応完成した。その特長は,[1]鉛を主材(それに少量のスズとアンチモンを加え)とする活字合金によって活字を鋳造しやすくしたこと(活字合金の比例は今日でも当時とほとんど変わっていない),[2]黄銅の鋳型と母型を考案し,多量の活字を正確に鋳造できるようにしたこと,[3]両面印刷のできる印刷機を製作したこと,[4]金属活字に適する油性ワニスで練った印刷インキを使用したこと,などがあげられている。彼が印刷したものには「免罪符」,『42行聖書』(『グーテンベルク聖書』)1455年?刊,『カトリコン』1460年刊をはじめ,『ドナトウス』,『36行聖書』1461年?刊,『コンスタンス=ミサル』などがあげられている。

【印刷術の伝播】クーテンベルクによって播かれた活版印刷術の種はヨハン=フスト(?〜1466),ぺーター=シェッファ(1430?〜1502)というすぐれた後継者によって大いに培われたが,1462年のマインツ市の大火を契機に,フスト=シェッファの工場で働いていた工人が各地に分散し,短期間に印刷術がヨーロッパ全域に伝えられることになる。15世紀ごろの交通はほとんど水路によっていたので,マインツから分散した工人たちは,ライン川の本支流を上下してバンベクルク・ストラスブルク・ケルンに至り,アウスブルク・ニュルンベルクなどにおよび,それぞれの地で斯術を伝えた。さらに国を越えてイタリアのスビアコ・ローマ・ヴェネチア・フィレンツェにひろまり,オランダのユトレヒト,スイスのバーゼル,フランスのパリ・リヨン,スペインのバルセロナ,ハンガリーのブタペスト,ベルギーのブルッヘ(ブルージュ),ポーランドのクラクフ(クラカウ),イギリスのウエストミンスターなどに,いずれも1460〜70年初期までに伝播した。このようにして15世紀末までおよそ50年間に,ほとんどヨーロッパ全土に伝わり,イタリアの73カ所,ドイツの52カ所など合計250カ所1,000軒におよび,そのあいだ印行された本はおよそ4万点に達する。これをインキュナブラと称し珍重する。インキュナブラとは“ゆりかご時代の本”の意で,わが国では“初期刊行”とか“15世紀刊本”などと呼んでいる。

【小さな鉛の兵隊】グーテンベルクの発明した活版印刷術は,世の人々に最も大切な賜物を贈った。中世時代のヨーロッパでは,一部の貴族・僧侶以外,ほとんどの人は読み書きができなかった。こうした状態のなかで印刷術は国から国へ,町から町ヘ,人から人へと知識をひろめるのに大いに役立った。印刷術が普及したため,本が安くできるようになり,貧しい人でも容易に手に入るようになったため,多くの人が文字に親しみ,本のなかに書かれているいろいろのことを知るようになった。印刷者のなかには,小耳にはさんだいろいろのニュースを小型のパンフレットにして配ったところ,多くの人から喜ばれ,重宝がられた。いわゆる今日の新聞のはしりのようなものであろう。これらのパンフレットは戦争が勃発したときや,国王の戴冠式が行われたとき,疫病が大流行したり,大洪水や大地震がおこったとき,そのほか国の重要なでき事が生じたときに限られ,印刷発行されていたが,しばらくして定期的に発行され,政治・経済・社会・軍事・教育・家庭その他,町でおこったいろいろなでき事を報道するようになった。人々は印刷されたパンフレットや新聞を熱心に読むようになり,自分の町や村,国のことばかりでなく,よその国の事柄も国内でおこったでき事と同じようにいろいろ知るようになった。まもなく政府や寺院の当局者は,印刷術が人間の考えや行動に大きな影響を与え,新しい思想と信仰を伝える大きな力のあることを知り,このままにしておけば,小さな鉛の兵隊(活字のこと)による新しい表現形式によって革命がおこるかもしれないと心配しはじめた。イギリスのある高官は〈いまにしてすべての印刷機を破壊してしまわなければ,やがてわれわれは印刷機によって滅ぼされてしまうだろう〉といい,ついに国王や大臣・国会を批判する者を罰する法律を制定した。言論圧迫の現れで,イギリスの最高裁判所は〈政府については事の善悪を問わず,一切批判することを許さず,もしその禁を犯す者あらば,だれかれの差別なく耳を切り,舌を抜き,その他の拷問(ごうもん)を加えて死刑に処すべし〉というきつい法令を出した。しかし,多くの印刷者はそのような圧迫にもめげず,小さな印刷機をかかえ,官憲の目をぬすみ,自分の正しいと信ずるものを印刷し,頒布しつづけた。彼らは〈人が真理を知れば,真理はその人を自由にするだろう〉(新約聖書ヨハネ伝8章32節)とのことばを信じ,どんな迫害にも堪え,印刷し,頒布しつづけた。そのため印刷者の多くは笞刑にあい,首手かせ(罪人の首と両手をはめて,人前にさらしものとした昔の刑具)をかけられ,絞首台上の露と消えることもあったが,彼らは迫害に屈せず,真実と信ずるものを印刷し出版をつづけた。ある印刷者は〈われわれは為政者から非難され,投獄され,罪に問われ,絞首刑のうき目を見るかもしれない。しかしわれわれの主張を公けにするのは,われわれの権利というよりむしろ義務である。われに26の小さな鉛の兵隊あり,これをもって世界を征服せん〉といった。ともあれ,グーテンベルクによって開花された印刷術の,人類文化の進展に果たした功績は決して少なしとしない。印刷術の発明は文芸を復興し,宗教を改革し,産業を盛んにし,中世の暗黒時代を打破し,近代文明の基礎を築いた。〈印刷なくして真の文化なし〉とも,〈印刷の存する所文化存す〉ともいえよう。

(1/2:続く)

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