●隠居 いんきょ
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家長が老後,その地位・権限などを次代の相続人に譲り渡し,退隠の境遇に入ること。家長権(戸主権)の生前譲渡,いわゆる生譲りにもとづいて形成されるわけで,死後譲渡(死譲り)では隠居は発現しない。その際の旧家長と新家長は通例親と子であり,家長権の授受は世代間交代を意味する。さらに家長権に合わせて,主婦権の継承も同時に実現することが多く,隠居は嫁姑(よめしゅうとめ)関係とも深く結ばれている。隠居は村落や同族・親族など対外的な交際の責任からも解放されるのがつねで,村寄合や村仕事,祭りや講,祝儀・不祝儀などへの出席も新家長と交替することになる。【明治民法の隠居】隠居が明治民法によって法的に規制されたことは,爾後の観念・慣行に及ぼした影響も大きかった。明治民法では,隠居は戸主が生前に戸主権を家督相続人に譲渡することをさし,それは戸主の任意によるものであることを要し,[1]居主が満60年以上なること,[2]完全の能力を有する家督相続人が相続の単純承認をなすことの2条件が具備しない限り隠居を認めぬと規定した。ただし疾病その他やむをえぬ理由で家政を執れなくなったときは裁判所の許可を得て,また女戸主は年齢にかかわらず隠居できるとした。そして隠居者および家督相続人により戸籍吏に届け出て初めて隠居の効力は生ずるともした。ここに規定された隠居は,かなり面倒な制限がなされており,国民大部分の実際とは必ずしも合致せぬ場合が少なくなかったが,1947年(昭和22)いわゆる新民法の施行までつづけられた。
【近世の隠居】明治民法が採用した家族制度は,近世武家社会における理念型を踏襲したものであった。近世には,武家は主君より封禄を受ける代わりに,終身奉公すべきだとの観念が強く,老衰や疾病などによる隠居はむしろ例外とも考えられていた。そのため幕府法をはじめ各藩の藩法でも隠居に各種の制限を付し,年齢的にも70歳・60歳の高齢を規定する例が多かった。隠居による家産・家名の相続を隠居相続・家督相続と呼び,死亡による跡目相続・遺領相続と区別していた。また,行状不良のため家督の任に堪えぬとか,重大な落度があったとかして家長権を剥奪する“罪科隠居”が行われたのも時代の特徴であった。1859年(安政6)安政の大獄では,多くの者が隠居の刑に処せられた。すなわち公家では青蓮院宮が隠居のうえ永蟄居(ながのちっきょ),武家では徳川斉昭が永蟄居,一橋慶喜・山内豊信は隠居慎(つつしみ),伊達宗城は隠居を命ぜられた。一方,庶民社会では,隠居の様相はかなり異なり,町人の場合,40歳代の若隠居を歓迎し,悠々自適の楽隠居を理想とする風が見られた。農漁民の場合も,母屋(おもや)から出て隠居屋に移り,食事や経済を別にする隠居が一般であった。
【古代・中世の隠居】近世武家の隠居は室町,戦国武将のあいだにまで遡らせることができる。戦国大名の分国法にも隠居の規定が散見され,1597年(慶長2)発布の『長曽我部元親百箇条掟』には「隠居分」として留保しうる財産を細かく定めていた。富国強兵を策するためにも戦国大名は隠居だけでなく家臣の人事全般を掌握しておく必要があった。戸主権・家産の生前譲渡をさして“隠居”と呼んだのも室町時代からで,1402年(応永9)今川了俊著『難太平記」に〈故殿隠居のいとま申されて,為跡継めしつかはれし也〉とあるが最も早い例といわれる。
もともと隠居とは“隠れて居る”という意味で,783年(延暦2)『続日本紀』藤原田麻呂薨去の条に〈蜷渕山中に隠居し〉とあるのもそれに近い。これから転じて,隠居とはいったん官に仕えたものが致仕退隠することをさすのが平安公家社会の用例であった。当時,生前における家名・家業の継承自体はみられたものの,これを隠居とは呼ばなかった。鎌倉武家社会でも同様で,遁世や出家などと称した。やがて長男子による家督の惣(総)領相続がおこり,これと結びついて生前譲渡を隠居と呼ぶ用法が始まったのである。
〔参考文献〕穂積陳重『隠居論』1905,有斐閣
竹田旦『民俗慣行としての隠居の研究』1964,未来社