●殷 いん
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中国に実在した最も古い王朝で,商とも呼ばれた。殷に亡ぼされたという夏については,まだ科学的確証が得られてないが,半世紀以上にわたる甲骨文字や考古学の研究により,殷王朝と殷代文化の実態はしだいに明らかになった。【殷王朝】殷王朝は,前1600年ごろ湯王が開いてから,紂王の滅亡まで,31代,約600年間つづいたといわれているが,殷王朝の成立過程や600年といわれる歴史内容については,まだ十分に解明されていない。『史記』にみえる殷の各王の名と系図は,おおむね正しいと解されており,また殷王朝は,各地域に成長した部族の国々の連合勢力の盟主であったと考えられている。王朝は同族の集合で,王位は直系だけで継承されず,兄弟相続が行われて不安定であり,後期になって父子相続が確立したようである。殷の都城は,湯王が西亳(はく)に構えてから,11王の仲丁がゴウ※注1※に,13王の河亶(かだん)甲が相に,14王の祖乙(いつ)が庇(ひ)に,18王の南庚(こう)が奄(えん)(曲阜)に移り,20王の盤庚が殷墟(安陽)に移って,紂王の滅亡まで定住したといわれる。殷墟は大邑商と呼ばれ,殷の国は商と呼ばれた。殷王朝は,このように河南・山東に都を移しながら,しだいにその勢力範囲を拡大していったが,その活動の中核に種々の集団があった。卜師集団は,甲骨で占卜する卜師(真人)の集団で,王の代わるごとに交代しており,多くは殷の支配下の国や部族から派遣され,殷王の監督下に占卜を行い,それを記録していた。甲骨に記録された占卜の内容は,祭祀・豊凶・風雨・軍事,使令・狩猟・往来・病気・旬夕(10日ごとの毎夜の吉凶)などで,そのうち祭祀の占卜は90%以上を占めている。多子族集団は,殷の王子たちやその子孫によって構成され,ときには殷の支配下の国や部族の王子や族長の子弟が参加しており,青年を中心とする組織で,祭祀や戦闘に参加した。多婦集団は,他国から殷の王子たちに嫁してきた夫人達の集団で,祭祀に参加し,とくに卜骨の整備にあたった。王族集団は,殷の支配下の国や部族から選抜された人によって構成された殷王の親衛隊で,大貴族の指揮をうけて戦闘に参加した。また軍事関係の集団には,多馬・多射・多犬・衛・戌(じゅ)などがある。軍団は5人1組が最小単位で,戦闘軍団は師と呼ばれ,左・右・中の3軍編成であり,車を馬でひかせる強力な戦車隊もあった。ほかに祭祀・記録の官として,尹(いん)・多尹・作冊などがあり,また容器・楽器・武器・工具・車馬具などを製作するそれぞれ専門の工人集団もあり,それらの多くは世襲であったようである。祭祀は,政治と未分化で殷王朝を特徴づけている。最も重要なものは祖先祭祀であるが,祖先祭祀は同時に同族結合の紐帯となって,周以後の崇廟の祭祀となる。河の神や山の神を祭る自然神祭祀も重要であり,祈年や雨請いのために行われた。自然神の多くは,もと殷以外の国や部族によって祭られていたものであるが,殷は勢力を拡大する過程で,自国の祭祀に吸収し,相互結合の宗教的紐帯となった。自然神祭祀は,のちに社稷(しょく)の祭祀となる。これらの祭祀には,動物のほかに多数の奴隷が犠牲に供されているが,奴隷の大部分は異族視された捕獲者のようである。王以下の有力者の埋葬にも,奴隷をはじめ多くの殉葬者をともにした。なお,殷代における最高の神は,帝という天の神である。帝は人の願いに左右されず,一方的に意志を示す最も強力な神で,祭祀を超絶していた。このように殷王朝は,支配下の国や部族から,種々の職務に人を徴発し,祭祀も吸収し,また物資を貢納させて,その軍事的宗教的支配を強化したが,後期には宗教性から脱却して,王権の確立をはかった。当時の政治的支配は,河南省北部・山東省西部・河北省南部・山西省東南部に及んでいたようであるが,その周囲には,異方と呼ばれた多くの部族の国があり,西北の土方,西の苦方,東の夷方などは強力であった。紂王が夷方討伐に出兵したスキに,背後から西方の周族に攻撃されて,殷王朝は滅亡した。
【殷代の文化】殷代の文化は,早期の二里頭文化,中期の二里崗文化,後期の殷墟文化に大別される。その分布範囲は,殷王朝の政治的支配圏よりはるかに広大である。二里頭文化は,河南省偃(えん)師県二里頭を標準遺跡とし,河南省西部・山西省西南部に集中し,西は陝西省華県,北は山西省襄汾(じょうふん)地域に及び,東と南は河南省の省境まで分布する。新石器時代の河南竜山文化晩期の発展の上に出現しており,年代はほぼ前1900年から前1500年にあたる。二里頭遺跡は1950年(民国39)の末から調査され,文化層は早期(1〜2期)と晩期(3〜4期)にわけられる。早期の1期は,河南竜山文化の晩期にあたる。晩期文化層は,殷代早期文化の遺存であり,宮殿址・住居址・墓地のほかに,青銅器・玉器・骨器・土器製作の工房などの諸遺構があり,都城的規模を備えている。青銅器は,鑿(のみ)・錐・刀・鏃(やじり)・釣針・鈴のほかに,小型の爵・杯などの酒器がある。青銅爵は薄手無文で,表面はあらい。土器は特色があり,觚(こ)・爵・カ※注2※(か)などの酒器が現れ,なかには記号を刻んだものがある。全部で24種の記号のうち,殷墟の甲骨文字に似ているものが若干ある。玉器には,圭・戈(か)・刀・ソウ※注3※(そう)などがある。牛や羊の肩胛骨の卜骨もあり,大部分は灼(や)いた跡があるだけで,刻みは入れてない。このように二里頭文化晩期には,文明の主要な指標(都市・青銅器・文字)が認められ,しかも土器・玉器・卜骨などを含めて,中国文明の特徴を備えていた。二里頭の都城は,一般に殷の湯王の都,西亳に比定されているが,ほかに二里頭文化早期は夏に属するという説や,二里頭文化すべてが夏の時代のものとする意見がある。いずれにせよ,この時期の中国には,素朴な中国文明をもつ王朝が存在していたといえよう。二里崗文化は,河南省鄭(てい)州市二里崗を標準遺跡とし,鄭州を中心として,北は河北省の藁(こう)城,南は湖北省の黄陂(ひ),西は陝西省の華県,東は山東省の益都まで分布している。年代は,ほぼ前1600年から前1500年にあたる。二里崗遺跡は1950年の初めから調査され,殷代中期の版築による城壁が発見された。この鄭州城址の東北部に宮殿址がある。城外近郊には青銅器・土器・骨角器などの工房があり,各種の手工業ごとに,隷属的な専業世襲の工人集団が従事していたようである。ほかに,小型住居や墓地などがある。城壁の原形は,平均して,高さ10m,頂部の厚さ5m,基部の厚さ20mと推定され,このような全周7kmの版築大城壁を建設するには,毎日9,500人を使役して8年間かかると推算されている。莫大な労働力を動員し得た殷王朝中期の権力機構が想定される。また黄陂の盤龍城にも全周1.1kmの版築の城壁があり,城内には宮殿遺跡がある。二里崗文化の青銅器は,単一の範(かた)や二つ合わせ範によって鋳造された武器や工具のほか,複合式の範による大方鼎などがある。平底の爵・カ※注4※・觚などの酒器や鬲(れき)があるが,土器の器形を模したものが多く,素朴で古拙(こせつ)の風がある。土器には,大口尊・鬲・カ※注4※・豆・鉢などがあり,また原始磁器の尊の出土は注目をあびた。殷代の特色をもつ玉器も出土した。ほかに,占卜に用いた牛・鹿・猪・羊などの肩胛骨や,亀の甲が多くある。なお,文字が書かれた骨があり,河北省藁城県台西村・江西省清江県呉城の種々の土器には,種々の文字が刻まれたものがある。二里崗文化もまた,中国的特徴をもつ文明であった。鄭州の都城を,11王仲丁の都,ゴウ※注1※にあてる説や,14王祖乙の都,庇にあてる説などがあるが,まだ定説はない。殷墟文化は,河南省安陽市の殷墟で代表される。1928年(民国17)以降近年まで調査されているが,その分布範囲は広く,遼寧・河北・河南・山東・山西・陝西・安黴・江蘇・江西・湖北・湖南の各省に及んでいる。殷墟は,盤庚から紂王まで273年間の都であったといわれ,年代は前約1300年から前1027年までというのが通説である。都城の中心地区には,版築による土壇が数個あり,犠牲を供して祭祀をした祭殉坑があるが,城壁は発見されていない。小屯とその付近には,青銅器・土器・石器・骨角器の工房がある。侯家荘・武官村一帯には,大墓群と殉葬および祭祀坑群があり,奴隷など多数の殉葬者と副葬品が発見された。殷墟西北区の1,000余の小墓と比べて,当時の社会では階級差・身分差が大きかったことが知られる。殷代文化の高水準を代表するのは,青銅器である。青銅器は合わせ範で鋳造され,容器・楽器・武器・工具・車馬具などがある。儀礼に用いられる酒器(尊・壷・カ※注2※・カ※注4※・爵・觚など)や食器(鼎・鬲など)は,豪壮な形態と華麗な文様をもち,青銅器中最もみごとな芸術品である。婦好墓出土の青銅器は優れたものが多く,3連のゲン※注5※(げん),2連の方彝(い),巨大な方鼎などがある。銅鏡4面の出土も注目された。ほかに種々の玉器が多数あり,造形・文様が美しく第1級の美術品である。青銅器・玉器などには,獣面文や装飾線文などが施され,殷代文化に特徴的な怪奇美をただよわせている。土器製作も発展し,紅陶・褐陶・黒陶に代わって,灰陶が大部分を占め,うすねずみ色の細泥灰陶は,色が均一で,焼成技術の進歩を表している。また刻みこみ文様の白陶や,原始磁器も現れている。なお,占卜に用いた大量の甲骨には多数の文字が発見されて,殷代の実態が大いに解明された。また甲骨のほかに,青銅器・土器・玉石器にも文字が刻まれているものがある。このような殷代文化にみられる中国文明は,単に晩期の河南竜山文化を発展させただけでなく,黄河流域をはじめ,山東半島地域・揚子江流域などの新石器時代の文化をも吸収して形成されたのである。
〔参考文献〕貝塚茂樹『中国古代再発見』1979,岩波書店
貝塚茂樹『中国の歴史』1964,岩波書店
天野元之助『中国社会経済史−殷・周之部−』1979,開明書院
文物編集委員会編『中国考古学三十年』1981,平凡社
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