●院 いん
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太上天皇(上皇)の住居所の称。転じて太政天皇そのものの称ともなる。江戸時代の院天皇と称する人もいるがその場合必ずしも隠居した天皇を意味しない場合も多い。もとはといえば家屋をめぐらした垣の意味から一区画をなす建物の名称となる。平安時代の半ばごろから院といえば太政天皇の住居所をさし,院のうへ・院の御方・院みかど類似の名称もある。もちろんその成立は[1]摂関抑圧・皇権伸張政策説,[2]自然発生説,[3]輔仁親王けん制政策説,[4]摂関抑圧・輔仁けん制説のごときものから,天皇が巨大な荘園領主に転化するために新しい政治形態をとる必要があり,そこに院政がはじめられ,それが受領層と武士階級を基盤として古代専制君主政体をとるため院政をとった。その形態が上皇の事務所が院庁であるので院庁政治ともいう。院政はあくまでも上皇が「治天之君」となり,権力の根源となる。摂関政治が母方ミウチ政治であるなら院政は父方尊属政治でもある。院政は院(上皇)を中心として展開したので,院近臣は上皇と乳母関係にあり,彼らは数国の受領を経験しており,巨富をたくわえている。院近臣の中には摂関家の家臣・近臣の横すべりも少くない。院分国というのは院の知行国である。こうした基盤をもち上皇政治が行われた。上皇も一人とは限らず,一院(本院)・中院・新院のごとく退位の先後による名称も存在するし,一院を新院に対しただ院と呼ぶ場合もある。また仙院のごとく上皇を神仙になぞらえるもの,女院と称するもの等もある。そのほかに女院でも院とだけ呼ぶものも少くない。いずれにせよ院政期には上皇をとりまく人々によって多くの所領が増大した。これも一種の皇室領であるが,荘園そのものであった。長勝寺領(法勝寺・尊勝寺など),鳥羽安楽寺領,法金剛院領(待賢門院領)金剛勝院領(美福門院領),観喜光院領(美福門院領),八条院庁分領(八条院),蓮華心院領(八条院),六条長講堂領(後白河上皇),新熊野社領(後白河上皇),最勝光院領(建春門院領),七条院領(七条院)などをあげることができる。
上皇政治は専制的に国制を運用している。院政の基礎は院庁を構成するものが[1]院の頭脳・手足となって実務をとるもの,[2]諸国の受領を歴任して院の経済力を与えるもの,[3]院や天皇との間に乳母関係を有するものなどである。それとともに院政は院庁のほかに受領層たちが造立した御所堂塔などがある。彼らは任国の重任や選任などの恩賞を目的として財力奉仕をして殿邸・社寺を造営して,院庁の政治力を補完している。院政については別稿にゆずるが,上皇になることイコール院政ではない。
上皇の意を体した院司が奉者として発給する奉書形式の文書・書止めには院宣かくのごとしとなっており書出風の書止めになっている。これが上皇の出した政治的指令ともいわれるものである。
院とは別な意味で院庁をさす。これは太上天皇もしくは女院に付属する行政処理機関である。別当以下の院司がいる。この院庁から発給される文書に院庁下文がある。書出しに院庁下とあり,本文の書止め文言は故下とある。こうしたものによって院の命令が伝達されている。
院庁の開庁式を院庁始という。太上天皇の尊号をうけたり,また女院号宣下をうけたあと吉日を選んで行われる。このようにみてくると日常的なものでなく,臨時につくられる形をとっている。しかしやがてこれが常時置かれるものとなっていったのである。ただそのスタッフは公的な政府機関に比べると,院庁がつくられてもシモザマのものの登用が多くなっている。その点で多少宮政機関に類似する部分が大きくなっていることはいなめない。そうしたなかでは院司を数えると20種に及ぶところをみるとかなり発展している。それには院宮分国制のごとき経済的基盤もあったこととかかわる。今後そうした面へのアプローチの必要性を感ずる。院政とか院司その他の職制とのかかわりでなく,その経済的社会的地盤の検討が望まれる。