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●石見 いわみ

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 島根県西半部の旧国名。邇摩郡仁満郷に国府を置き5郡を擁した中国。843年(承和10)に美濃郡西半部に鹿足郡を分置,そのころ国府も現浜田市下府町に移転。石見国造のものと推定されるスクモ塚(100m,後期),石見の代表的前方後円墳周布古墳,馬具を出土しためんぐろ古墳などがある。崇神朝に国造を拝したという大屋古命の伝承があり,柿本人麻呂が掾(じょう)として在任中当国で死んだという。12世紀には摂政藤原忠通や堀河中納言藤原光雅の知行国となり,石清水八幡宮領大国保が出現,鎌倉時代には宇多院浄金剛院領桜井荘以下多くの荘・保・別符が在地領主層の成長に伴って成立。1193年(建久3)に佐々木定綱が初代守護となったが,土着国司藤原国兼(右大臣藤原宗忠従兄弟)の子孫益田・三隅・福屋・周布氏らが有勢。後醍醐天皇の船上山挙兵に西因の雄三隅兼連が呼応,因幡武士の多くが南朝に味方した。1364年(貞治3)大内弘世が守護となる。その子義弘が応永の乱(1399,応永6)をおこして滅亡。次の守護京極高詮の死(1401,応永8)以降,尼子経久を破った大内義興が守護となった永正年間(1504〜21)まで約100年間,益田・三隅・福屋・吉見ら諸豪族の割拠,出雲守護代尼子氏の侵入の時代であった。1551年(天文20)大内義隆陶晴賢に襲われて自殺,1555年(弘治1)以降石見は毛利氏の領国となった。関ケ原の戦い後,1601年(慶長6)に着任した銀山奉行大久保久安が石見一国を支配,1620年(元和6)以降石見は3分され,東部は天領で大森代官所支配の銀山領,中部は5万石の浜田藩,西部は4万3千石の津和野藩領となった。高津川下流の吉田平野以外は山がちである石見は古くからの経済的発展が微弱で,国産として知られるのは16世紀前半から採掘が始まった大森銀山の銀,17世紀に盛んとなった邑知郡南部の砂鉄の採取と浜田・津和野両藩の特産として大坂に搬出された石見半紙である。

〔参考文献〕『島根県史』