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●石清水八幡宮 いわしみずはちまんぐう

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 京都府八幡市八幡高坊に鎮座。男山八幡宮ともいう。祭神は誉田別尊(応神天皇)・比呼大神・息長帯比売命(神功皇后)で,宇佐神宮と同体である。859年(貞観1)奈良大安寺の僧行教が,豊前国(大分県)宇佐八幡宮に参詣し,大神の託宣を受け,宇佐八幡宮の本殿に準じ,六宇の宝殿を男山に造営し,翌年ここに神璽を奉安したのが起源といわれる。863年(貞観5)行教は官符を申し下し,護国寺を神宮寺とし,豊後由原宮にならい宮寺とした。もともとこの本宮は天皇守護のために勧請されたので,初めから皇室による尊崇は篤く,歴代天皇の行幸啓や奉幣がたびたびにわたって行われた。869年(貞観11)新羅来寇の鎮定を祈る宣命には石清水の皇大神(八幡神)は「我朝乃大祖」として称え,872年(貞観14)には渤海使を祈られ,940年(天慶3)8月20日には藤原文元等討滅を祈られ,ついで封戸を奉っている。これが神封の始めであった。941年(天慶4)8月に将門・純友の乱平定を祈謝し,11月には鎮定の報賽として舞人歌人を納められた。翌年4月27日には神財弁に舞人歌人を納め再び東西賊徒の平定を賽せられ,ここに初めて石清水臨時祭が行われた,971年(天禄2)東遊定馬を奉り,974年(天延2)勅により雅楽寮官人が放生会に,左右馬寮十列御馬等が隔年ごとの奉仕となる。1000年(長保2)中宮藤原彰子が初めて神輿を調進した。1077年(承歴1)封子50烟をあてられ,1113年(永久1)の御願文には〈国家の宗廟〉と記し,伊勢につぐ大神とされた。1150年(久安6)には美福門院が神輿を奉っている。行幸啓は989年(永祚1)正月21日円融法皇の参詣を初めとし,1877年(明治10)の行幸まで240余度行われ,奉幣には即位由奉幣,同祈祷,大嘗祭由奉幣,大神宝使,1代1度の仏舎利使などがあった。源頼信以後,頼義・義家ともに本社を源氏の氏神として崇敬し,東国や東北にまで八幡宮を勧請した。源頼朝は鎌倉鶴岡八幡宮を崇敬するとともに,本社に対しても阿波国三野田保などを寄進し篤く崇敬し,1191年(建久2)には別当領を特別に保護した。1235年(嘉禎1)には石清水神人が神輿を振って強訴しようとしたので,朝廷は伊賀・因幡国内の荘園を寄進している。蒙古来寇にあたっては天皇は行幸して祈願し,大きく神験を得たのである。室町時代には足利氏も崇敬したが,とくに義満は石清水を尊信し,公武の信仰は本社に集中した。これは江戸時代にも続き朱印地を受け,1869年(明治2)8月石清水は男山に改められ,1918年(大正7)1月石清水に復称された。1081年(永保1)には22社に列し,1113年(永久1)には完廟と称せられ,1871年(明治4)官幣大社,1883年(明治16)には賀茂とともに勅祭社となった。本社の社領は護国寺別当が管理したので宮寺領ともいう。940年(天慶3)25戸の封戸寄進後平安時代末には封戸300余戸,荘園は936年(承平6)河内国矢田荘開発以後,畿内を中心に33カ国に100カ所及び,室町時代の全宮寺領は400余カ所に及んだという。江戸時代の朱印地は6,384石余,寄進買得地2,300余石があった。本宮には初め神宮はなかったが,876年(貞観18)行教の一族紀御豊が字佐宮に準じて,神主に任ぜられ代々相続した。別当は宇佐弥勒寺講師元命が紀氏を称し別当となり,外孫が祠官を襲い,のちには田中家,善法寺家となった。その職掌は検校が支配し,宮寺務は別当があたり,別当の下に権別当修理別当があり,祠官三綱所司と区別された。中世の神人制では末社離宮八幡大山崎神人が最も優勢であった。社殿は1135〜41(保延)・1334〜38(建武)・1504〜21(永正)の3回炎上,現社殿(国宝)は1631年(寛永8)徳川家光の造営で,八幡造であるが三宇連結する。社宝は古文書・五輪塔・石造燈籠各一基は重要文化財,9月15日の例祭(石清水祭)は古くは放生会賀茂祭・春日祭と三大勅祭の一つ。

〔参考文献〕中野幡能『八幡信仰史の研究』増補版,1967,吉川弘文館

中野幡能『八幡信仰』1985,塙書房

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