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●岩倉遣外使節 いわくらけんがいしせつ

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 明治初年米欧に派遣された条約改正交渉の使節団。岩倉具視を大使とするところからこの名がある。明治政府は幕府が結んだ条約の改正協議期限が1872年(明治5)であることからその交渉のため使節団の差遣を計画,その際新政府樹立の国書の奉呈を行い,あわせて文明開化のモデルとしての欧米の制度・文物の調査・研究をすることとした。

【使節団の陣容】全権大使に外務卿岩倉具視を右大臣に昇任して任命,副使に参議木戸孝允・大蔵卿大久保利通・工部大輔伊藤博文・外務少輔山口尚芳を任じ,総勢46名(ほかに私的従者15名)の大使節団を編成,さらに欧米諸国への42名の留学生(54名説もある)も往路同行させた。そのなかにはフランス留学の中江兆民やアメリカ留学の津田梅子ら5人の女子留学生も含まれていた。

【条約改正交渉】使節団は1871年11月12日横浜を出港,12月6日(太陽暦では1872年1月15日,以下カッコで太陽暦の月日を示す)アメリカのサンフランシスコに到着。大陸横断鉄道で1872年1月21日(2月29日)ワシントンヘ着き,グラント大統領に謁見ののち条約政正交渉を開始した。ところが使節団が全権委任状を持参していないことをアメリカ側から指摘され,急拠大久保と伊藤が一時帰国,その間交渉のかたわら各地を巡覧。当初改正協議期限の5月26日(7月1日)までに国内法整備が間に合わないので改正期限の延長を要請することを目的としたが,使節団のなかに早期改正論が生まれたものの,交渉がきわめて困難であることを認識し,以後は改正交渉ではなく友好増進と調査・研究に重点を置くこととした。

【各国巡覧】一行は7月3日(8月6日)ボストンを出港し,7月14日(8月17日)ロンドンに到着,マンチェスター・グラスゴーなどを巡覧ののちロンドンに戻りビクトリア女王に謁見。11月16日(12月16日)パリに到着してティエールフランス大統領に謁見。1873年2月17日(この年1月1日より太陽暦使用,ただし時差のため日付に若干の差異がある)ベルギーのブリュッセルに到着。以下順次オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・スイスを訪問し,各国元首に謁見するとともに議会・官庁・工場・農場・博物館などの展示施設・学校・社会事業施設などを精力的に巡覧,また法典・制度の調査・研究も精力的に行った。

【帰国】途中ドイツより大久保利通が,ロシアより木戸孝允が帰国したが,7月9日ジュネーブ滞在中政府より帰国命令が届き,スペイン・ポルトガル訪問を中止,7月20日フランスのマルセイユを出港し帰国の途に就いた。帰路スエズ運河を通過,アデン・セイロン島に寄港,マラッカ海峡をへてサイゴン・香港・上海に寄港して9月6日長崎に到着,9月13日横浜に帰着した。帰国時のアフリカ・アジア諸港の視察も使節団の国際認識に大きく影響している。

【内治優先論】当時岩倉使節団を欠いた政府(留守政府)は1871年の廃藩置県の事後処理と地租改正秩禄処分学制頒布徴兵令・国憲編纂・司法制度確立など諸改革に着手していた。その過程で予算をめぐる対立(大蔵省と司法省など)が発生,また重要な改革・人事異動をしないとして岩倉使節団との公約を無視したことから感情的対立も生じ,1873年秋の征韓論論争では使節団は一致して“征韓”を時期尚早とし内治優先論を主張した。この内治優先論には彼らの米欧巡覧の知見が反映しており,工業化・軍事化を核とする富国強兵とそれを強行するための天皇の権威化・政府の専制化の構想がたてられつつあった。これらは西郷隆盛ら留守政府首脳の下野によって大久保利通を中心とする政権ができると着々と実行に移され,士族反乱や自由民権運動を押さえて推進された。欧米をモデルにすることはアジア・アフリカヘの低い認識と相まって,脱亜入欧の路線の確立をも意味したといわれている。

〔参考文献〕田中彰『岩倉使節団』講談社現代新書,1977,講談社

田中彰『「脱亜」の明治維新』NHKブックス,1984,日本放送出版協会