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●入墨 いれずみ

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刺青・文身・ともかく。皮膚に針・小刀などで傷をつけ、墨汁・朱などの色素浴液を注入して、絵画や文字などで身体に装飾を施す風習。入墨は古くから行われ、前2000年ごろのエジプトのミイラからも発見されている。この風習は限られた地域にのみあったのではなく、世界の諸民族のあいだで行われ、装飾のほかにも、その社会集団の一員の印として、削歯や割礼などとともに行われたり、また、呪術的な儀礼として行われたりした。そのほか、階級を示すもの、厄除け・病除けのためのもの、結婚・出産などにおいて戸籍代わりに行われたこともある。日本でも『魏志』倭人伝『古事記』『日本書紀』にその風習がみられる。しかし、文化の発達とともに、世界各地でもしだいに衰え、影をひそめつつある。

【方法】現在日本で行われている方法は、まず墨で皮膚に下絵をかき、棒の先に裁縫の針を数本たばねて筆状にし、これに色素溶液を含ませて皮膚組織まで刺し、さらにその傷に色素をすり込む。図柄によっては施術は1年余〜数年に及び、激しい痛みと、ときに発熱・化膿を伴うこともあって、かなりの忍耐と勇気を要する。色素は皮膚の除去や薬品などによる浸食がなければ一生消えない。

【施術の部位・図柄】入墨のなされる場所は、上腕・前腕が最も多く、ついで背・腹・胸・太もも・足裏・外陰部・頭部など全身に及ぶ。図柄は、日本では伝説・文学・歴史上の人物が最も多く、欧米ではおもに、旗・ハート形・人の名前など小さな図柄を局部的に施し、全身に及ぶものは少ない。未開人は一般に全身に行うが、結縛崇拝にもとづく直線・うず状・環状などの幾何学的な図柄が主で、そのほかには動物や太陽・月などの自然物を図案化したものがある。

【日本の入墨の歴史】『魏志』倭人伝に記述されている入墨が文献上では最古である。〈男子は大小となくみな(げい)面文身す。(略)夏后小康の子会稽に封ぜられ、断髪文身して蚊龍の害を避く〉とあり、3世紀には入墨の風習があったことを示している。また『古事記』の神武天皇東征の条には、大国主命利目(さけるとめ、目のまわりに入墨をした鋭い目)の記述がみられ、『日本書紀』履中天皇の条にも同じような入墨の記載がある(5世紀)。

 日本において、入墨が最も流行したのは江戸時代であった。刑罰として行われた(後述)ほかにも、庶民のあいだでかなりの流行をみせた。京都の遊里におこった心中立ての一方法としての入りぼくろがそのきっかけであったが、恋人同士の相愛不変の印として、二の腕や親指のつけ根の甲に入墨をしたり、遊女が客をひきつける技巧の一つとして行った。その後、「南無阿弥陀仏」などの文字が彫られたり(1680年前後から)、絵が彫られるようになった(1751年以降)。1789年(寛政1)の風俗改革後には、背・胸・腕などに施術するなど大流行し、専門的な彫り師も現れた。最も盛んであったのは文化・文政のころ(1804〜30)で、芝居や浮世絵のなかにも盛んに扱われた。

 また江戸時代には、刑罰としての入墨も行われた。これは中国の墨刑に習ったもので、ギジ※注1※の2刑、つまり耳・鼻をそぐ刑に代わるものとして、罪人の腕に幅3分(約1cm)ほどの2筋の入墨を行った。おもに盗犯者に用いられ、藩によっては額に施すところもあった。前科者を入墨者というのはこれによる。1872年(明治5)太政官令によって、これらは禁止になった。

【アイヌ・奄美・沖縄の入墨】アイヌの女性は口のまわりや両前腕・手背部・眉のあいだなどに入墨を行った。図柄は地方や個人で差がある。しかし、幕末から明治にかけて、法律で徹底的に禁止されたため、現在ではほとんど目にすることはない。

 奄美や沖縄では、女性が手の甲に入墨をする風習があった。これをハヅキ(針突)と称していたが、12歳ごろからはじめ、結婚するとその文様が完成した。一種の成年式の儀礼で呪術的な意味もあったし、場所によっては既婚者の印であった。

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