●慰礼城(ウィレエソン) いれいじょう
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百済最初の国都。『三国史記』百済本紀には,始祖温祚王がこれまでいた卒本扶余を脱出し衆を率いて南下し,漢山にいたり,そこの負兒岳に登って地形を望見して河原の慰礼城を都としたと伝えている。この慰礼城の所在地については異説が多くある。河南慰礼城説には京畿道広州郡西部面春宮里から南漢山城にかけての地域,稷山(忠清南道天原郡稷山面),益山(全羅北道益山郡)などがあり,河北慰礼城説にはソウル特別市の西大門区洗剣洞地方と城北区貞陵洞地方がある。しかし,歴史時代における百済の国都は終始広州郡の地にあって,475年に蓋鹵王が高句麗長寿王に攻め滅ぼされるまでつづいた。『日本書紀』に引用されている「百済記」には,このことを〈狛の大軍来りて大城を攻むること7月7日夜,王城降り陥る。遂に尉礼国を失ふ〉と記している。すなわち百済国を尉礼国としている。慰礼城の慰礼は,円形の木棚を意味する韓語ウリから由来したという説もあるが,光明を意味するともいう。百済(日本ではクダラ)という国名は光明城・大城・木村を表したものであるから,百済人が自国を尉礼国と表したのも当然であろう。〔参考文献〕三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考記』上