●イラン立憲革命 イランりっけんかくめい
アジア イラン・イスラム共和国 AD1905
1905〜11 20世紀初頭にカージャール朝の専制を制限し議会と憲法をもたらした革命。【革命の準備期】カージャール朝支配下のイランは19世紀後半からイギリス・ロシアの進出と影響のもとにおかれて半植民地化された。この外国支配に反対した最初の民族運動が19世紀末の“タバコ=ボィコット運動”で,商人と都市民がウラマーをたてて,外国に従属した王朝に抵抗した。これはイラン民族運動におけるウラマーの役割を強め,王朝の支配を後退させた。またこのころから,国外在住のイラン人は,王朝の腐敗と無能力を批判し,外国の進歩とイランの後進性を論ずる新聞や本を発行して,イランの目覚めを準備した。アサダーバーディー(アフガーニーのこと)・マルコム=ハーン・ターリボフなどがこの先駆者だった。
【革命の開始】20世紀はじめ,専制的王朝を改革しようとする結社がテヘランに生まれ,各都市の憂国の士との結びつきもでき,改革の要求が高まっていった。1905年春,シーア派のムハッラム月の殉教祭に,「ロシアの手先の外国入」がイスラームを汚したことに市民が抗議した。つづいて同年末,ロシア系銀行のテヘラン支店建設反対に端を発して,テヘランの市民の抗議運動が高まっていたとき,砂糖商人が役人に捕えられた。バザール全体が抗議の商店閉鎖(バスト)を行い,市民の代表が自治機構の設置を含む政治的要求項目を明確に掲げた。ウラマーは,テヘラン南方の聖地に抗議の避難をし,商人はイギリス公使館内に避難して王朝に抵抗した。これが立憲革命の第一の波であった。王朝はこれに譲歩して要求を認めた。さらに1906年6月,テヘラン市民は約束の実行を迫って再度,商人がイギリス公館内に,ウラマーはコムに大挙して避難した。市民全体を巻き込んだこの世論の圧力のまえに,8月,国王は議会設置の勅令を発した。
【第1次立憲制】勅令につづいて短期に選挙法がつくられ,9月に選挙が公布され,テヘランの商工業者が多数選出された。こうして同業組合の親方がおもに10月開会の第1回議会に加わった。12月末までに憲法が議会で承認された。イランの各都市では,同業組合,居住区を基盤に革命組織(アンジュマン)が生まれ,議会を支えた。先進都市タブリーズでは市の革命組織が地方役人に代わって地方自治を樹立した。この時期に立憲革命の高まりを示して,市民の手による新聞がいっせいに現れた。1907年10月には市民の権利を明言した憲法補足ができた。他方,1907年イギリス-ロシア協商が結ばれて,イギリス・ロシアはイランを勢力圏として勝手に分割した。ロシアは北部で自由に行動できることとなり,イランの立憲制をますます敵視して王朝の反革命を用意した。またこのころ,タブリーズ,レシトでは第1次ロシア革命下のカフカースから社会主義運動の影響をうけた。そのなかで市民の武装の用意が始まった。
【反革命と第2次立憲制】立憲革命の高まりに危機を感じた反革命の国王ムハンマド=アリー=シャーとこれを背後で唆したロシアは,1908年6月,国王のコサック軍に命じて議会を暴逆にも砲撃し破壊するとともに,議会を停止し,戒厳令のもとに専制を復活した。議員は四散し,革命組織は解散させられた。指導者たちは捕えられ,処刑,追放された。こうして立憲制がイランから消滅しようとしたとき,タブリーズで市民が武装蜂起して王朝側の包囲に耐え抜いた。またカフカースからは出稼ぎのイラン人石油労働者やグルジア人革命家がタブリーズ蜂起支援に駆けつけた。1909年レシトで市民蜂起がおこり,市民軍がテヘランめざして南下した。これに呼応してイスファハン付近の半遊牧部族バフティヤーリー族が立憲制回復のために立ちあがり,同時行動してテヘランに進行した。この南北からの急進撃に王朝軍は脆くも崩れて,国王はロシア公館に保護を求め,ロシアに逃亡して7月,立憲制は回復され,国王は退位した。新選挙法のもとに第2同議会が聞かれ,穏健派と急進派が議会内外で激しく対立した。1911年ロシアの最後通牒で議会は閉じられ,立憲革命は幕を閉じた。