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●井原西鶴 いはらさいかく

アジア 日本 AD1642 江戸時代

 1642〜93(寛永19〜元禄6)江戸時代前期の浮世草子作者・俳人。本名は平山藤五(伊藤梅宇『見聞談叢』巻6の伝える説)。号は初め鶴永(かくえい),のち西鶴。西鵬(さいほう)そのほかの別号もある。

【俳諸師西鶴西鶴は大坂の富裕な町人の子として生まれ,15歳のころから俳諧をたしなみ,21歳のころには俳諧の点者となっていたと推定される。その俳風は,初め貞門の流れにのるものであったが,談林俳諧の中心であった西山宗因に近付き,1670年代には談林調となって行く。とりわけ,自派の新風を鼓吹する『生玉万句(いくたままんく)』(1673)以後,その派手な活動ぶりによって談林俳諧師たちの尖鋭と目され,異風・異体の俳諧を行う作者の意で「おらんだ西鶴」と呼ばれたりしている。1675年(延宝3),亡妻の追善のために一日千句の独吟を行って『俳諧独吟一日千句』を刊行し,同年中に剃髪するが,その後西鶴の俳諧師としての活動は,いっそう本格的となる。なかでも,1677年(延宝5)の一昼夜独吟千六百句の『西鶴俳諧大句数』,1680年の一昼夜独吟四千句(翌年『西鶴大矢数』として刊行),1684年の一昼夜独吟二万三千五百句(ただしその折の発句以外は現存せず),などの,一日一昼夜という制限時間内でスピードと量をきそう独吟俳諧(矢数俳諧)は,談林俳諧西鶴の名を高からしめ,その存在を世間に印象づけるものであった。しかし,西鶴の本領は,俳諧の余技として執筆した『好色一代男』(1682刊)の好評にこたえて41歳以後力をそそぐようになる小説(浮世草子)のジャンルにおいて,よりいっそう発揮されているようである。

浮世草子西鶴】『好色一代男』は,主人公世之介の一代記という型をとり,その好色遍歴を中心に浮世の姿や人の心のありようを描き上げた作品であるが,その清新な発想と文体とは,それ以前の散文作品(仮名草子)をのりこえ,現代風俗小説ともいうべき浮世草子の新たな領域を確立するものであった。西鶴は,その好評にこたえて,その続編の型をとる『諸艶大鑑』(別名『好色二代男』,1684刊)を書き,さらには『好色五人女』(1686刊),『好色一代女』(同年刊)などの好色物浮世草子を発表して,町人たちの享楽生活の種々相,女性たちの生や風俗の諸相を卓抜な手法で描破した。また,『西鶴諸国ばなし』(1685刊),『懐硯(ふところすずり)』(1687刊)では諸国の珍談・奇談をとりあげ,『本朝二十不孝』(1686刊)では親不孝の問題に,『男色大鑑』(1687刊)では当時流行していた男色の問題に焦点をあて,浮世の一面を照射している。さらに,武家の敵討(かたきうち)をとりあげる『武道伝来記』(1687刊),義理の問題を中心に武家の行為や心情のあり方を描く『武家義理物語』(1688刊)を発表して,町人の目から鋭く武家の姿をとらえている。そのような旺盛な執筆活動をつづけるなかで,西鶴は,1688年(元禄1)に『日本永代蔵』という町人の現実生活(経済生活)に取材する作品を発表する。いわゆる町人物浮世草子の第1作である。それ以後西鶴は,多方面に素材を求める方向を止めるわけではないが,没後刊行された『西鶴織留』(1694刊)を元禄1〜3年ごろ執筆し,その関心は町人の日常生活へと集中して行くようである。書簡体小説の型をとり,恥多い人間の生の一面をえぐり出す『萬の文反古(ふみほうぐ)』(1696刊)を未完のままで放置したのち西鶴は,大晦日の24時間という時間設定をおいて中下層町人の生活ぶりを描く『世間胸算用』(1692刊),町人の享楽生活の行きつく果てを描いた『西鶴置土産』(1693刊)などの秀作を書き,1693年8月10日,「浮世の月見過しにけり末二年」の辞世を残して,52歳で没した。没後,弟子の北条団水の手によって,前記の『西鶴置土産』『西鶴織留』『萬の文反古』を始め,『西鶴俗つれづれ』(1695刊),『西鶴名残の友』(1699刊)が出されたが,『一代男』以後の西鶴の多彩な浮世草子は,以後70年近く続く浮世草子の規範となり,多くの模倣作品を生むこととなった。また,それは,軽妙な文体,鋭い現実把握などにより,近代以後の作家にも多くの影響を与えることになったのである。

〔参考文献〕野間光辰『刪補西鶴年譜考証』1983,中央公論社

暉峻康隆『西鶴新論』1981,中央公論社

谷脇理史『西鶴研究序説』1981,新典社

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