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●伊波普猷 いはふゆう

アジア 日本 AD1876 明治時代

1876〜1947(明治9〜昭和22)言語・文学・歴史・民俗などを総合した沖縄研究いわゆる沖縄学の創始者、啓蒙的社会思想家。那覇西村で父普済・母マツルの長男として生まれる。その生涯は、近代沖縄の激動期に重なり、時代の要請にこたえていかに沖縄を発見し、生くべきかの学問的・実践的課題の追究に費やされた。1891年(明治24)沖縄県尋常中学校入学。5年生のとき、児玉喜八校長の沖縄に対する差別的教育方針などに抗議して排斥運動をおこし(尋常中学ストライキ事件)、指導者の一人として1895年(明治28)11月退学処分となる。このころから〈侮辱された同胞〉救済のため努力する決心を固める(『古琉球』序文)。後年の一連の沖縄における啓蒙活動はこうした体験の延長線上にあるといえよう。政治家を志して1896年(明治29)上京、明治議会尋常中学校に入学、4年間の浪人生活ののち、1900年(明治33)第三高等学校に入学。当時は歴史学志望であったが、在学中言語学に志望が変わり、1903年(明治36)東京帝国大学文学科言語学専修に入学。同期に橋本進吉、1期下に金田一京助らがいた。またそのころ中学時代の恩師田島利三郎からおもろ(奄美・沖縄諸島に伝わる古歌謡)の講義をうけ「琉球研究資料」を譲渡される。三高時代から郷里の新聞などに投稿して注目されていたが、これらのことが機縁になっておもろ研究を基礎として本格的に沖縄研究に取り組む。1906年(明治39)に卒業後、帰郷、そこで直面したのは、琉球処分(明治初期の沖縄の廃藩置県はとくにそう呼称されている)以来の「沖縄の歴史隠滅政策」のもとで、文化的・精神的に自信喪失した郷土人士の姿であり、思想的状況であった。それは伊波が1個の単なる郷土研究家として立つことを許さず、やがて現実打開の使命感から多様な啓蒙活動にのりだすことになる。伊波は郷土資料の発掘・蒐集・著述活動と並行して、歴史・言語・宗教と多岐にわたる講演活動を展開する。沖縄文化は劣性とされた当時の社会状勢のなかでは画期的なことであった。『古琉球』で展開された「日琉同祖論」もこのような社会的背景のなかから、沖縄人の人間としての尊厳を回復する根拠として提示された「抗議の学」という性格をもつものであった。活動は沖縄図書館設立運動などにひろがり、沖縄人自らによる沖縄の文化的個性の再発見をめざすものとなる。大正期に入るとさらに沖縄組合教会・子供の会・沖縄各地に講演行脚した民族衛生運動へとひろがって、民衆の政治的自覚を呼びかけ、民衆政治論を展開した。『古琉球の政治』『孤島苦の琉球史』『琉球の五偉人』などはこの時代の民本主義者としての伊波の思想を如実に示している。1925年(大正14)、こうした活動に終止符を打って上京。以後東京において在野の学者として沖縄研究に専念する。この“街頭から書斎”への転換の背景には、大正末期から顕著になった沖縄の経済的窮乏(ソテツ地獄)という現実の前に、自らをかけた啓蒙運動が有効ではなかったという挫折感があったといえよう。東京での伊波は、柳田国男・折口信夫・河上肇らと交流をもち、『をなり神の島』『日本文化の南漸』など一連の民俗学的論考をはじめ、『校訂おもろさうし』『沖縄考』『南島方言史攷』などを次々と結実させた。1947年(昭和22)8月、脳溢血のため仮寓の比嘉春潮宅で波乱の生涯を閉じた。最後の著『沖縄歴史物語』には廃墟の沖縄・講和を控えた沖縄の将来を憂うる心情が述べられている。1973年(昭和48)、伊波の学問的業績をたたえ、沖縄研究を振興する目的で伊波普猷賞(沖縄タイムス社主催)が設けられている。